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Rajneesh 教団で少女時代を過ごし、過酷なトラウマを負った人物の証言動画

· 約101分

前置き

2025-04-25 に up された動画を AI で整理した。

Rajneesh 教団の実態を当事者(当時、9歳の少女)である Sarito Carroll が証言している。

かつては日本でも Rajneesh を称賛する言動や翻訳書が世間に無数に出回っていたが、現在は古本屋の片隅か処分本コーナーあたりでしか Rajneesh とか Osho という名前を眼にしない。かつて Rajneesh の与太話を吹聴し、称賛していた連中はもう何も発言していないようなので、既に死に絶えたらしい。

要旨

AI

ラジニーシ教団生存者サリト・キャロルの証言

この資料は、‌‌「Rajneesh Survivor: Full interview with Sarito Carroll」‌‌というYouTube動画のトランスクリプト(文字起こし)からの抜粋で、カルト的な精神共同体‌‌ラジニーシプラム(Rajneeshpuram)‌‌での生活について、サバイバーであるセリート・キャロル氏にインタビューした内容を収録しています。

このコミュニティは1980年代初頭にインドの導師‌‌バグワン・シュリ・ラジニーシ‌‌とその信者たちによってオレゴン州のアンテロープ近郊に設立されました。

キャロル氏は、そこで‌‌性的虐待とネグレクト‌‌を経験した子どもたちの一人であり、その体験を綴った回想録‌‌『In the Shadow of Enlightenment』‌‌について語っています。彼女は、‌‌カルト的な環境でのトラウマ‌‌、そして虐待が‌‌今日まで続く影響‌‌について、沈黙を破って詳述し、‌‌OSHO International Foundation‌‌に対して過去の行為に対する‌‌責任と補償‌‌を求めています。

目次

  1. 前置き
  2. 要旨
  3. 全体俯瞰
    1. エグゼクティブ・サマリー
    2. 1. ラジニーシ運動の魅力と約束
    3. 2. 『ワイルド・ワイルド・カントリー』が描かなかったもの:子供たちの現実
    4. 3. 組織的性的虐待の常態化
    5. 4. 指導者たちの実像:バグワンとシーラ
    6. 5. コミューンの崩壊とその後の人生
    7. 6. 説明責任の追求
  4. ラジニーシ運動の崩壊の文脈と、子供たちの経験との関連
    1. 1. ラジニーシ運動の崩壊の文脈と、子供たちの経験との関連
    2. 2. コミュニティの子供たちのトラウマ
  5. バグワン・シュリ・ラジニーシ(後にOshoと改名)の教え
    1. 1. 教えの根幹と表面的な魅力
    2. 2. 子供のネグレクトを正当化した教え:「子供はコミュニティのもの」
    3. 3. 性的虐待を常態化させた教え:「性のタブー廃止」
    4. 4. バグワン・ラジニーシ(Osho)の人物像と教えの矛盾
    5. 5. 教えによるトラウマの永続化
  6. ラジニーシプラム(Rajneeshpuram)における子供たちの生活
    1. 1. 組織的なネグレクトと親からの放棄
    2. 2. 児童労働と不適切な教育
    3. 3. 広範な性的虐待の常態化
    4. 4. トラウマの長期的な影響と被害者非難
  7. シーラとその影響(The Moms)
    1. 1. シーラの権力と役割
    2. 2. 「マムズ」(The Moms)の構造と権限
    3. 3. 子供たちの虐待に対する影響と容認
    4. 4. 責任の回避
  8. トラウマと治療、説明責任
    1. 1. トラウマの性質と深さ
    2. 2. 治癒と回復のプロセス
    3. 3. アカウンタビリティ(説明責任)の要求
  9. サリト・キャロル氏の証言に基づくラジニーシ運動の時系列史
    1. 序文
    2. 1. 黎明期とインド・アシュラム時代(1970年代半ば〜1981年)
    3. 2. オレゴン・コミューン「ラジニーシプーラム」時代(1981年〜1985年)
    4. 3. 崩壊後と真実の探求(1985年〜現在)
  10. ラジニーシ運動の主要人物と関係者:サリト・キャロル氏の証言に基づく概要
    1. 2.1. バグワン・シュリ・ラジニーシ (Bhagwan Shri Rajneesh) / オショ (Osho)
    2. 2.2. サリト・キャロル (Sarito Carroll)
    3. 3.1. シーラ (Sheila)
    4. 3.2. ザ・マムズ (The Moms)
    5. 4.1. サリトの母親 (Sarito's Mother)
    6. 4.2. オショ国際財団 (Osho International Foundation)
    7. 4.3. ローレル・ポーター (Laurel Porter)
  11. 情報源

全体俯瞰

AI

サリト・キャロルへのインタビュー:ラジニーシュプーラムの知られざる物語

エグゼクティブ・サマリー

このブリーフィング資料は、1980年代にオレゴン州に存在した物議を醸す精神共同体「ラジニーシュプーラム」で子供時代を過ごしたサリト・キャロル氏へのインタビューを要約・分析したものである。キャロル氏の証言は、Netflixのドキュメンタリーシリーズ『ワイルド・ワイルド・カントリー』などの一般的な報道ではほとんど触れられてこなかった、コミューンにおける子供たちの過酷な実態を明らかにしている。

主要なテーマは、教団の「性的解放」の教義の下で常態化していた、子供たちに対する組織的な性的虐待である。キャロル氏自身も12歳で成人男性から性的暴行を受け、他の多くの子供たちも同様の被害に遭っていた。指導者層はこの事実を認識していながら、中止させるどころか「慎重に行動する」よう指示するに留まった。

さらに、子供たちは正規の教育を受ける権利を剥奪され、「壁のない学校」という名目で1日12時間から16時間に及ぶ過酷な労働に従事させられた。教祖ラジニーシの「子供はコミューンに属する」という教えにより、多くの親は育児責任を放棄し、子供たちは事実上見捨てられた状態にあった。

キャロル氏は、コミューン崩壊後の人生で経験した長期的なトラウマと、加害者や現代の後継組織である「Osho International Foundation」に対する説明責任の追及について詳述している。彼女の証言は、精神的な理想の裏に隠された搾取と虐待の構造を浮き彫りにし、この運動が残した癒えがたい傷跡を物語っている。

1. ラジニーシ運動の魅力と約束

バグワン・シュリ・ラジニーシ(後のOsho)が主導した精神運動は、1970年代から80年代にかけて、特に西洋の若者たちを強く惹きつけた。この運動は、ヒッピー・ムーブメントやウーマンリブ、性的解放といった時代の潮流と共鳴していた。

  • 約束された解放: 他のグルが何時間もの瞑想を説くのとは対照的に、ラジニーシは「人生を祝い、最大限に生きること」を説いた。彼は「苦しみからの解放、悟り、精神的な目覚め」を約束し、道徳や制約を設けず、「本当の自分に忠実であること」だけを求めた。この教えは、より厳格な社会で育った西洋人にとって大きな魅力となった。

  • キャロル氏の経緯: キャロル氏(旧名ジェニファー)は、ヒッピー的な放浪生活を送る母親と共に、9歳でインドのアーシュラム(道場)に到着した。当初は3ヶ月の滞在予定だったが、そこでの開放的で愛情に満ちた環境に惹かれ、そのまま3年間留まることになった。彼女にとって、そこは初めて「本当の友人」と「自分の居場所」を見つけたと感じられる場所だった。

2. 『ワイルド・ワイルド・カントリー』が描かなかったもの:子供たちの現実

2018年に公開されたNetflixのドキュメンタリーシリーズ『ワイルド・ワイルド・カントリー』は、外部世界との政治的対立を正確に描いている一方で、コミューン内部の日常生活、特に子供たちの実態を完全に看過しているとキャロル氏は指摘する。この「物語の欠落」が、彼女が自叙伝『In the Shadow of Enlightenment』を執筆する直接の動機となった。

  • 育児放棄の正当化: ラジニーシの「子供は親ではなく、コミューンに属する」という教えは、多くの親にとって育児責任から解放される口実となった。その結果、一部の子供たちは親から事実上見捨てられ、自分たちだけで生きていくことを余儀なくされた。キャロル氏自身もインド滞在中の3年間、母親との関わりはほとんどなく、オレゴン移住後4年間に至っては、ほとんど交流がなかった。
  • 労働搾取: 子供たちは伝統的な学校教育を受けず、「壁のない学校(school without walls)」という制度の下で、大人と共に1日12時間から16時間の労働に従事させられた。これは「経験から学ぶ」という名目で行われ、キャロル氏は事務作業、他の子供たちは建設作業などに従事し、怪我をする者もいた。これは、子供たちが成人期に備えるための適切な環境ではなかった。
  • 外部との断絶: コミューンの子供たちは、近隣の町アンテロープの住民と交流することを禁じられた。「彼らは我々を憎む偏見の持ち主だ」と教え込まれ、完全に孤立した環境で育てられた。

3. 組織的性的虐待の常態化

コミューンで最も深刻な問題は、教団のイデオロギーによって助長され、常態化していた子供たちへの性的虐待であった。

  • イデオロギー的背景: ラジニーシは「セクシュアリティにタブーを持つな。それは自然なことだ」と説いた。彼は、子供たちが大人の性行為を見ることは、それに慣れるために良いことだと示唆さえしていた。この教えは、性的搾取を正当化する文化的土壌を形成した。
  • キャロル氏の個人的トラウマ: 彼女はオレゴン移住直後の12歳の時、29歳の成人男性にレイプされた。当初、彼女はそれを「恋愛」だと信じ込まされていたが、後に彼が多くの女性と関係を持ち、他のティーンエイジャーにも手を出していた「有名な小児性愛者」であったことを知る。彼女は処女を失ってから2週間以内に、指導者の一人によって避妊処置を受けさせられた。
  • 蔓延する虐待: このような虐待はキャロル氏のケースに限らなかった。
    • 彼女の同世代の少女のほとんどが成人男性と性的関係を持っていた。
    • ある同級生は16歳になるまでに150人の成人男性と関係を持ったと証言している。
    • 少年たちもまた、成人女性による性的虐待の被害に遭っていた。
  • 指導者層の黙認: 「マムズ」と呼ばれる女性幹部や、コミューンの実質的な運営者であったシーラは、虐待の実態を把握していた。
    • ある時、当局の調査を懸念したシーラは、ティーンエイジャーたちに性的関係を持った男性のリストを作成させた。そのリストには少なくとも100人の名前が記載されていた。
    • リストに載った男性たちは会議に呼び出されたが、行為をやめるようには言われず、ただ「慎重に行動するように(to be discreet)」とだけ指示された。
  • 被害者非難の文化: コミューンの文化では、虐待に対して苦痛を感じること自体が「精神的に未熟」であると見なされた。キャロル氏は「もし私がもっとスピリチュアルだったら、そんなことは水に流せただろう」という形で、自らの感情を非難される経験をした。これは「スピリチュアル・バイパス」と呼ばれる、巧妙な被害者非難の一形態である。

4. 指導者たちの実像:バグワンとシーラ

キャロル氏の証言は、運動の指導者たちの複雑な人物像を明らかにしている。

  • バグワン・シュリ・ラジニーシ (Osho):
    • 矛盾した人物像: キャロル氏は、彼の教えには深遠なものもあったと認めつつも、個人的には彼に惹かれたことはなく、「何か違和感があった」と語る。現在の彼女は、彼を「カリスマ性を備えた、非常に頭の良い、精神的に問題のある巧みな操縦者」と見なしている。
    • 物質主義と誇大妄想: 彼は96台のロールスロイス(目標は365台)や数百万ドルの腕時計を所有していた。この極端な物質主義は、彼が説く精神的な教えと著しく矛盾しており、子供であったキャロル氏でさえ「非常に不快」に感じていた。
  • シーラ:
    • 変貌: バグワンの秘書であり、コミューンの実権を握っていたシーラは、当初は「エネルギーと楽しみに満ちた、事を成し遂げる花火のような人」に見えた。
    • 権威主義: しかし、時間が経つにつれて、彼女は「はるかに激しく、威圧的で、権威的」になり、誰も逆らえない威圧的な存在へと変貌した。

5. コミューンの崩壊とその後の人生

1985年、犯罪行為が明るみに出てコミューンが崩壊した時、キャロル氏は16歳だった。彼女は教育も金銭も社会常識も持たないまま、一人で外の世界に放り出された。

  • サバイバル: 所持金300ドルで、1日10ドルの滞在費を払いながら生活した。ヒッチハイクで移動し、売春の誘いも受けたが、断固として拒否した(彼女の同世代の多くは性産業やストリップで生計を立てた)。
  • トラウマの長期的な影響:
    • 人間関係: 特に男性に対する深い不信感を抱くようになり、「裏切られることへの恐怖」が人生の大きなテーマとなった。このトラウマは、他者からの愛を受け入れることを困難にした。
    • 精神的な影響: 自己肯定感の欠如や、「自分は不十分だ」という内なる声に長年苦しめられた。
  • 回復力と成功: 絶望的な状況にもかかわらず、キャロル氏は驚異的な回復力を見せた。GED(高校卒業認定資格)を取得後、大学で優秀な成績を収め、テクニカルライター、鍼灸師、不動産業者として成功を収めた。

6. 説明責任の追求

キャロル氏と他の被害者たちは、40年が経過した今もなお、加害者と組織に対する説明責任を求めている。

  • コミュニティの反応:
    • 彼女がFacebook上で虐待の事実を公にした際、コミュニティの反応は二分した。「素晴らしい時間を過ごした」「性的自由を楽しんだ」と主張する元メンバーもいた。
    • 同情を示す者もいたが、その多くは「ごめんなさい」と言うだけで、具体的な行動には繋がらなかった。「40年も前のことだ」「水に流せないのか」といった、被害者を退ける言動も多かった。
  • Osho International Foundation (OIF)への要求: OIFはラジニーシの知的財産(250冊以上の書籍、数百万人のフォロワーを持つSNSアカウント)を所有し、彼の教えを広める現代の組織である。キャロル氏はOIFに対し、以下の具体的な行動を求めている。
    1. 明確な謝罪: 虐待の事実を認め、公式に謝罪すること。
    2. 金銭的補償: 被害者がトラウマ治療を受けるための経済的支援。
    3. 再発防止策: 将来同様の事態が起こらないようにするための具体的な方針を公表すること。
  • 法的障壁: OIFは、オレゴンのコミューンとは法的に直接の繋がりがないと主張し、責任を回避している。キャロル氏はこれを「煙に巻くためのごまかし」だと批判している。彼女はOIFに対し、「もし本当に精神的な運動であるならば、その言葉通りの行動を示し、私と私の仲間たちのために正しいことをすべきだ」と強く訴えている。

ラジニーシ運動の崩壊の文脈と、子供たちの経験との関連

AI

これらの情報源は、元コミュニティの子供であるサリト・キャロル氏へのインタビューに基づいており、‌‌ラジニーシ運動の崩壊‌‌と、その教えと環境によって引き起こされた‌‌子供たちのトラウマ‌‌という中心テーマについて、‌‌公に語られていなかった暗い側面‌‌を明らかにしています。

特に、広大な政治的・犯罪的な崩壊の物語の影で、コミュニティ内で子供たちが経験した日々の生活、ネグレクト、そして深刻な虐待が、運動全体の核心的な病理であったと示唆しています。

1. ラジニーシ運動の崩壊の文脈と、子供たちの経験との関連

ラジニーシ運動(ラジニーシプラム)は、1980年代初頭にオレゴン州アンテロープ近郊に設立された論争の的となる精神的なコミュニティ(カルト)でした。このコミュニティは、暗殺未遂、毒殺、および刑事告発の中で、40年前に崩壊しました。

運動崩壊の側面

  • ‌犯罪行為と政治的混乱:‌‌ サリト氏は、Netflixのドキュメンタリー『ワイルド・ワイルド・カントリー』は外部との政治的な対立に関しては「かなり正確だった」と述べています。しかし、彼女は、コミュニティが喧伝していたユートピア的で愛と自由の表面的な体裁の下に隠された、‌‌汚職や犯罪のより暗い底流‌‌が描かれていないことを指摘しています。
  • ‌指導者層の逃亡:‌‌ 連邦捜査官が介入した際、サリト氏にとってロールモデルであったシーラとその一団は夜中に逃亡し、その後、バグワンもコミュニティを去りました。この逃亡は彼女に大きな混乱(disorientation)と恐怖をもたらしました。
  • ‌物質主義と操作:‌‌ サリト氏は、バグワン・シュリ・ラジニーシ(後のOSHO)を、非常に乱れた(disturbed)‌‌操作的な人物‌‌であったと見なしています。彼の教えには知恵もあったものの、96台のロールスロイスや高価な時計を所有するなど、極度の物質主義が示されており、若年者であったサリト氏にとっても「非精神的」に感じられ、不適切でした。

2. コミュニティの子供たちのトラウマ

サリト氏の証言の中心は、ラジニーシ運動の教義がどのように子供たちのネグレクトと虐待を容認し、正当化したかという点です。彼女は、ドキュメンタリーで「子供たちの物語」が完全に欠落していたことが、自身の回顧録を真剣に書き始めるきっかけになったと述べています。

運動の教義によるネグレクトと放棄

  • ‌親からの分離:‌‌ ラジニーシの教えの一つに、‌‌「子供は両親のものではなく、コミュニティのものだ」‌‌というものがありました。これは、解放を求める多くの両親にとって「安堵」となり、彼らは子供たちの生活に都合の良い時だけ関わればよくなりました。その結果、一部の子供たちは事実上、親から見捨てられました。サリト氏自身、母親との関係は疎遠になり、オレゴン到着後4年間はほとんど交流がありませんでした。
  • ‌労働と教育の欠如:‌‌ 子供たちは「自分たちで自由にやる」状態に置かれました。彼らは伝統的な学校教育を受けず、「壁のない学校」という名目で、大人と並んで1日12〜16時間働くことを強いられました。これは、子供たちが大人になるための準備としては不適切な環境でした。

性的虐待の常態化と正当化

  • ‌「性のタブー廃止」の教え:‌‌ ラジニーシの主要な教えの一つは、‌‌セクシュアリティをタブーにしない‌‌ことでした。セクシュアリティは自然であり、「エネルギーに従うべき」とされていました。この文化は、「愛とセックスは同じこと」であり、オープンであるという認識を生み出しました。
  • ‌広範な性的虐待:‌‌ サリト氏が12歳の時、コミュニティ内の29歳の成人男性に強姦されました。彼女は当初、それをロマンスだと思い、特別扱いされていると感じていましたが、後に彼が有名な女性たらしであり、‌‌既知のペドファイル‌‌であったことを知りました。
  • ‌虐待の蔓延:‌‌ この虐待はサリト氏に固有のものではなく、彼女の知るほとんどのティーンエイジャーが成人男性と性的関係を持っていました。彼女の同年代の者の中には、16歳になる前に150人の成人男性と関係を持ったと述べる者もいました。サリト氏の15人という数は「少ない数」とされていました。
  • ‌コミュニティの容認:‌‌ コミュニティの指導者層である「マムズ」(Moms)たちは、何が起こっているかを知っていましたが、それを「間違い」とは言わず、‌‌「慎重にするように」‌‌とだけ指示しました。サリト氏は、童貞を失ってから2週間以内に避妊薬を処方されましたが、誰も彼女が成人男性と寝ていることを止めようとはしませんでした。

トラウマの長期的な影響と責任回避

  • ‌被害者非難と精神的な迂回:‌‌ 多くの元コミュニティメンバーは、この虐待を大したことではないと考えています。被害者のサリト氏は、自分が感じた感情のために「私が悪い」と非難される文化があったと述べています。これは、もし自分が「精神的」であれば、ただ手放すことができただろう、という‌‌「スピリチュアル・バイパス」‌‌(spiritual bypass)による卑劣な被害者非難(victim blaming)でした。
  • ‌トラウマと不信感:‌‌ 虐待の結果、サリト氏の心には「不信感」が深く刻まれ、特に男性に対しては信頼を築くことが非常に困難になっています。彼女は、トラウマを抱え、40年もの間、自分が「誰かが自分になってほしかった完璧なカルトの子供」の役割を演じてきたと説明しています。
  • ‌説明責任の欠如:‌‌ サリト氏が現在求めているのは、Osho International Foundation(運動の後継組織)からの具体的な説明責任です。これは、単なる謝罪だけでなく、トラウマ対処のための‌‌金銭的補償‌‌を含むべきだと考えています。しかし、財団側は法的血統がないとして責任を回避しようとしており、サリト氏はこれを「煙幕」だと感じています。

これらの情報源は、ラジニーシ運動の物理的な崩壊が、子供たちに長年にわたる精神的な崩壊をもたらし、そのトラウマが40年経った今もなお、コミュニティ内部からの認識や謝罪を得られていないという痛ましい現実を示しています。

バグワン・シュリ・ラジニーシ(後にOshoと改名)の教え

AI

ご提供いただいた情報源(サリト・キャロル氏の証言)は、教祖である‌‌バグワン・シュリ・ラジご提供いただいた情報源(サリト・キャロル氏の証言)は、教祖である‌‌バグワン・シュリ・ラジニーシ‌‌(後にOshoと改名)の教えについて、‌‌表面的な約束‌‌と、それがコミュニティ内の‌‌子供たちに与えた破壊的な結果‌**‌との間の大きな隔たりを明らかにしています。

ラジニーシの教えは、自由、解放、精神的な目覚めを約束した一方で、その教えが子供たちのネグレクトと性的虐待を容認し、さらには正当化する文化を生み出しました。

以下に、サリト氏の証言を通じて示されるラジニーシの教えに関する主要なテーマを説明します。

1. 教えの根幹と表面的な魅力

ラジニーシの教えは、1970年代半ばから、ヒッピー運動、性の解放、ウーマンリブなど、当時の反体制的な動きに乗じて、西洋の信者たちを惹きつけました。

  • ‌約束されたもの:‌‌ ラジニーシは、「解放」「悟り」「精神的な目覚め」を約束しました。彼は苦しみからの自由、喜び、そして祝祭を提供するとしました。
  • ‌「生活を祝い、最大限に生きる」:‌‌ 他のグルが「1日12時間瞑想する必要がある」と説いたのに対し、ラジニーシは「生活を祝い、最大限に生きる」ことを重視しました。
  • ‌制限と制約の否定:‌‌ 彼の教えは、「道徳(mores)も制約もない。ただ、真の自分自身に忠実である必要がある」というものであり、より構造的な家庭で育った西洋人にとって大きな魅力となりました。

2. 子供のネグレクトを正当化した教え:「子供はコミュニティのもの」

ラジニーシの教えの一つは、親が子供に対する責任を事実上放棄することを奨励しました。

  • ‌コミュニティの所有:‌‌ ラジニーシの教えには、‌‌「子供は両親のものではなく、コミュニティのものだ」‌‌というものがありました。
  • ‌親の解放:‌‌ この教えは、解放を求める多くの親にとって「安堵」となり、彼らは都合の良い時にだけ子供たちの生活に関わればよいと考えるようになりました。その結果、サリト氏のように、一部の子供たちは両親によって「ほぼ見捨てられた」状態になりました。サリト氏はオレゴン到着後、母親と4年間ほとんど交流がありませんでした。
  • ‌構造化された教育の否定:‌‌ ラジニーシのコミュニティでは、伝統的な学校教育は行われませんでした。子供たちは「経験から学ぶこと」とされ、‌‌「壁のない学校 (school without walls)」‌‌という名目で、大人と並んで1日12〜16時間働くことを強いられました。これは、子供を大人として社会に出る準備をさせるのに「不適切な環境」でした。

3. 性的虐待を常態化させた教え:「性のタブー廃止」

ラジニーシの主要な教えの一つは、性的虐待が蔓延し、コミュニティ内で容認される文化を直接的に生み出しました。

  • ‌性のタブーの否定:‌‌ ラジニーシの主要な教えの一つは、‌‌セクシュアリティをタブーにしない‌‌ことでした。彼は、セクシュアリティは自然であり、人は「自分のエネルギーに従うべき」だと説きました。
  • ‌子供の性経験の推奨:‌‌ ラジニーシは、‌‌「子供が親や大人がセックスするのを見ることは良いことだ」‌‌とさえ語っていたとされています。これは、子供たちがそれに慣れ親しみ、「経験できるように」するためであり、コミュニティ内での「パートナー交換」やポリアモリーのあり方を幼少期から教えることにつながりました。
  • ‌異常な行為の常態化:‌‌ この教えの結果、性行為がどこでも行われるのが「非常に普通」なことになり、サリト氏は大人と一緒にグループシャワーに入ったり、人々がセックスしているのを見たり聞いたりしました。コミュニティ内の誰も、それが間違っているとは考えませんでした。
  • ‌指導者層の反応:‌‌ コミュニティの管理者である「マムズ」(Moms)たちは、未成年者が成人男性と性的関係を持っていることを知っていましたが、それを「間違い」とは言わず、‌‌「慎重にするように」‌‌と指示するのみでした。サリト氏が12歳で処女を失った後、2週間以内に避妊薬が処方されましたが、誰も彼女を止めようとはしませんでした。

4. バグワン・ラジニーシ(Osho)の人物像と教えの矛盾

サリト氏は、ラジニーシの教えの一部に「非常に賢明な」部分があったことを認めつつも、彼自身が教えとは矛盾した人物であったと述べています。

  • ‌操作的で混乱した人物:‌‌ サリト氏は、現在の視点からラジニーシを「非常に乱れた(disturbed)‌‌操作的な男‌‌」と見ています。彼はカリスマ性と聡明な頭脳を持っていましたが、彼の教えは他の系統から集められたものだと感じています。
  • ‌極度の物質主義:‌‌ ラジニーシは、‌‌96台のロールスロイス‌‌を所有しており、目標は1年に365台すべてを乗り回すことでした。また、彼は何百万ドルもする時計も所有していました。
  • ‌「非精神的」な行為:‌‌ サリト氏は、ロールスロイス96台や高価な時計、美しい女性たちに囲まれて隔離された生活を送ることは、「極めて‌‌非精神的 (unspiritual)‌‌」であると感じ、若い頃から不快感を覚えていました。この彼の発言と行動の間の矛盾は、彼女が権威に異議を唱えないながらも、彼に近づく機会を避ける理由となっていました。

5. 教えによるトラウマの永続化

コミュニティの文化は、被害者が受けたトラウマを、教えを用いて非難する仕組みになっていました。

  • ‌スピリチュアル・バイパスによる非難:‌‌ 多くの元メンバーは、サリト氏が経験した虐待を大したことではないと考えており、サリト氏が虐待だと感じた感情について「私が悪い」と非難される文化がありました。これは、もし彼女が「精神的」であれば、その感情を「ただ手放すことができただろう」という、‌‌「スピリチュアル・バイパス」‌‌による「被害者非難(victim blaming)」でした。
  • ‌責任の回避:‌‌ 運動の崩壊後、後継組織であるOsho International Foundationは、ラジニーシの教え(250冊の書籍、YouTube、Instagramなど)を資金調達の手段として宣伝し続けていますが、子供たちが受けた虐待に対しては、法的血統がないとして責任を回避しています。サリト氏は、これが「スモーク・アンド・ミラーズ(ごまかし)」であると感じています。

結論として、サリト・キャロル氏の証言は、ラジニーシの「自由と解放」という教えが、実際にはコミュニティ内の‌‌「ネグレクトと性的搾取の自由」‌‌として機能し、その結果、幼い子供たちに深刻で長期的なトラウマを残したことを示唆しています。

ラジニーシプラム(Rajneeshpuram)における子供たちの生活

AI

ご提示いただいた情報源は、元コミュニティの子供であるサリト・キャロル氏の証言に基づいており、ラジニーシプラム(Rajneeshpuram)における‌‌子供たちの生活が、いかに深刻なネグレクト(育児放棄)と常態化された虐待(Abuse)によって特徴づけられていたか‌‌を詳細に明らかにしています。

この証言は、Netflixのドキュメンタリー『ワイルド・ワイルド・カントリー』などで描かれた運動の政治的・外部的な側面では見落とされていた、コミュニティ内部の「子供たちの物語」を語ることを目的としています。

以下に、ソースが示唆するラジニーシプラムでの子供たちの生活(ネグレクトと虐待)についての主要な点をご説明します。


1. 組織的なネグレクトと親からの放棄

ラジニーシの教えは、親が子供に対する責任を事実上放棄することを正当化する役割を果たしました。

  • ‌教義による放棄の正当化:‌‌ ラジニーシの教えの一つに、「‌‌子供は両親のものではなく、コミュニティのものだ‌‌」というものがありました。
  • ‌親の「解放」:‌‌ この教えは、解放を求める親たちにとって、日々の育児の責任から「安堵」を得る手段となりました。親たちは、「自分たちに都合の良い時だけ」子供たちの生活に織り交ぜて関わればよくなりました。
  • ‌事実上の見捨て:‌‌ その結果、サリト氏を含め、一部の子供たちは事実上、親に「‌‌見捨てられました‌‌」。サリト氏は、オレゴン州に到着した後、母親との関係がさらに疎遠になり、‌‌4年間ほとんど交流がなかった‌‌と述べています。
  • ‌自己に任せる環境:‌‌ 子供たちは「基本的に自分たちで自由にやる」状態に置かれました。

2. 児童労働と不適切な教育

ラジニーシプラムでは、子供たちは適切な教育を受ける機会を奪われ、過酷な労働環境に置かれました。

  • ‌伝統的な教育の否定:‌‌ サリト氏は、在籍期間中、構造化された教育をわずか数週間しか受けておらず、伝統的な学校教育は受けていませんでした。コミュニティは教育を「洗脳 (brainwashing)」だと見なしていました。
  • ‌「壁のない学校」という名の労働:‌‌ 子供たちは「経験から学ぶ」ことになっており、これは「壁のない学校 (school without walls)」と呼ばれました。
  • ‌過酷な労働時間:‌‌ 子供たちは、‌‌大人と並んで1日12時間から16時間働く‌‌ことを強いられました。サリト氏はオフィスで事務作業を行っていましたが、他の子供たちは建設作業に従事し、負傷した者もいました。
  • ‌不適切な準備:‌‌ サリト氏は、このような環境は子供たちが「‌‌成人期に備えるための適切な環境ではなかった‌‌」と断言しています。

3. 広範な性的虐待の常態化

ラジニーシの教えとコミュニティの文化は、未成年者に対する性的虐待が蔓延し、容認される環境を作り出しました。

  • ‌性のタブーの否定:‌‌ ラジニーシの主要な教えは、「‌‌セクシュアリティにタブーを設けるな‌‌」というものでした。セクシュアリティは自然であり、「自分のエネルギーに従うべき」とされていました。ラジニーシは、子供が親や大人の性行為を見ることは、「慣れ親しみ、経験できるようにするため」に良いとさえ語っていたとされています。
  • ‌虐待の経験:‌‌ サリト氏は12歳の時、コミュニティ内の‌‌29歳の成人男性に強姦されました‌‌。彼女は当初、それをロマンスだと誤解し、自分が「特別に選ばれた」と感じていました。後に、この男性が‌‌既知のペドファイル‌‌であり、悪名高い女たらしであったことを知ります。
  • ‌虐待の蔓延:‌‌ この種の性的関係はサリト氏に特有のものではありませんでした。彼女の知る‌‌ほとんどのティーンエイジャーが成人男性と性的関係を持っていました‌‌。
  • ‌驚くべき数字:‌‌ サリト氏自身は15人の成人男性と関係を持っていたそうですが、これは「‌‌少ない数‌‌」でした。彼女の同年代の中には、16歳になるまでに‌‌150人の成人男性‌‌と関係を持ったと述べる者もいました。サリト氏はこれを「150件のレイプ」と表現しています。
  • ‌指導者層による容認:‌‌ コミュニティの管理者である「マムズ」(Moms)たちは、未成年者と成人男性の関係について何が起こっているか知っていましたが、「‌‌これは間違っている‌‌」とは言わず、ただ「‌‌慎重にするように‌‌」と指示しただけでした。サリト氏は12歳で処女を失ってから‌‌2週間以内に避妊薬を処方されました‌‌が、誰も成人男性との性交渉を止めようとはしませんでした。

4. トラウマの長期的な影響と被害者非難

コミュニティの文化は、虐待とネグレクトの結果生じたトラウマに対し、被害者を非難する構造を持っていました。

  • ‌トラウマの軽視:‌‌ 多くの元コミュニティメンバーは、この虐待を「大したことではない」と考えています。彼らは「素晴らしい環境で育った」「とても幸運だ」というフィードバックをサリト氏に与え、彼女を「吐き気がするほど」に苦しめました。
  • ‌スピリチュアル・バイパス:‌‌ サリト氏が抱える感情や苦痛に対して、「‌‌もし自分が精神的であれば、ただ手放すことができただろう‌‌」という「‌‌スピリチュアル・バイパス‌‌」的な卑劣な被害者非難(victim blaming)の文化がありました。
  • ‌長期的な影響:‌‌ 虐待の結果、サリト氏の心には「不信感」が刻まれ、特に男性に対する信頼を築くことが非常に困難になりました。彼女は、40年もの間、多くの人が自分になってほしかった「‌‌完璧なカルトの子供‌‌」の役割を演じてきたと述べています。
  • ‌サバイバル:‌‌ 運動の崩壊後、教育も金銭もなく放り出された子供たちの中には、生き延びるために‌‌セックスワーカーやストリッピングに転向した‌‌者もいました。サリト氏自身、マーケティング可能な唯一のものが「若い肉体」だったと認識しています。

これらのソース全体が強調しているのは、ラジニーシプラムでの子供たちの生活は、外見上のユートピアや自由とは裏腹に、‌‌教義に裏打ちされた組織的なネグレクトと、コミュニティの黙認によって常態化された性的搾取‌‌という、暗い現実であったということです。

シーラとその影響(The Moms)

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ご提示いただいた情報源は、元コミュニティの子供であるサリト・キャロル氏の証言に基づき、‌‌シーラ(Sheila)ご提示いただいた情報源は、元コミュニティの子供であるサリト・キャロル氏の証言に基づき、‌‌シーラ(Sheila)‌‌、そして彼女が率いた女性グループ‌‌「マムズ」(The Moms)‌‌が、ラジニーシプラム(Rajneeshpuram)の日常運営、特に‌‌子供たちへのネグレクトと虐待を容認・隠蔽した構造‌**‌において、いかに中心的な役割を果たしたかを説明しています。

シーラと「マムズ」は、コミュニティの権威層として機能し、バグワン・シュリ・ラジニーシの教えを実行に移す執行者でした。

1. シーラの権力と役割

シーラは、バグワン・シュリ・ラジニーシの個人秘書であり、コミュニティの事実上の運営者でした。

  • ‌エネルギーと権威:‌‌ サリト氏の初期の印象では、シーラは「‌‌火花のようにエネルギーに満ち、物事をやり遂げる‌‌」人物であり、最初は楽しくて付き合いやすい人間に見えました。
  • ‌「インナーサークル」:‌‌ サリト氏は、自分が「ジーザス・グローブ(Jesus Grove)」、すなわち‌‌シーラのポッセ(側近)‌‌の「インナーサークル」で働いており、シーラが率いるコミュニティ運営の女性たちに囲まれていたと述べています。
  • ‌役割モデルとしての崩壊:‌‌ コミュニティが連邦捜査官の介入によって崩壊した際、シーラとその一団は‌‌真夜中に逃亡‌‌し、その後バグワンも去りました。シーラたちはサリト氏にとってロールモデルであったため、彼女たちの突然の逃亡は、サリト氏に‌‌大きな混乱と恐怖‌‌をもたらしました。

2. 「マムズ」(The Moms)の構造と権限

「マムズ」は、コミュニティ内の日常的な意思決定と運営を担う女性指導者層でした。

  • ‌女性による運営:‌‌ 「マムズ」は基本的にシーラと、‌‌コミュニティを運営する他のすべての女性たち‌‌を指していました。バグワンは、女性の方が物事を運営するのに適していると考えていたため、シーラが他の女性の副官たちを集め、彼女たちが集合的に「マムズ」と呼ばれていました。
  • ‌部門の管理者:‌‌ コミュニティ内の全ての部門は「テンプルズ」(Temple)と呼ばれ、それらを運営する女性たちが「マムズ」でした。
  • ‌階層構造:‌‌ サリト氏は、カルト的なコミュニティには階層構造がある中で、彼女自身が事務室の「ペットの子供」であったため、自分の母親よりもコミュニティの階層において‌‌上の立場にあった‌‌と認識しています。

3. 子供たちの虐待に対する影響と容認

シーラと「マムズ」は、未成年者の性的虐待に関する知識を持ちながらも、それを止めるどころか、‌‌隠蔽し、常態化を許容しました‌‌。

  • ‌虐待の黙認:‌‌ サリト氏は、「マムズ」たちは何が起こっているか‌‌知っていた‌‌にもかかわらず、「‌‌それは間違っている‌‌」とは言いませんでした。
  • ‌「慎重にするように」という指示:‌‌ 「マムズ」は、未成年者に対して性行為を止めるよう指示するのではなく、ただ「‌‌慎重にするように(be discreet)‌‌」とだけ言いました。
  • ‌避妊具の提供:‌‌ サリト氏は12歳で処女を失ってから‌‌2週間以内に避妊薬を処方されました‌‌。サリト氏の推測では、この避妊具の手配は権限を持つ「マムズ」の誰かによって行われたはずであり、誰も彼女が成人男性と性的関係を持つことを止めようとはしませんでした。
  • ‌虐待者のリスト作成:‌‌ ある時点で、当局が調査しているかもしれないという懸念から、シーラは数人のティーンエイジャーに、‌‌彼女たちが性的に関係を持っていた成人男性全員のリスト‌‌を作成させました。
  • ‌リスト作成後の対応:‌‌ そのリストには少なくとも100人の名前があり、その男性たちは会議に呼び出されましたが、彼らに伝えられたのは、行為を「‌‌やめるように‌‌」ではなく、「‌‌慎重にするように‌‌」という指示だけでした。サリト氏は、自分の特定の成人男性との関係がよく知られていたため、当局の詮索を避けるためにシーラによってヨーロッパに送られたのではないかと推測しています。
  • ‌外部への敵意の醸成:‌‌ シーラの住居であるジーザス・グローブでは、外部の人物、特に地元の人物(マーガレット・ヒルなど)について‌‌ひどいことを言う会話‌‌が頻繁に行われており、サリト氏は「彼らは私たちを憎んでいる」と教えられ、外部と交流しないよう孤立させられました。これは、コミュニティ内の権威者として、外部世界への不信感を子供たちに植え付けたことを示しています。

4. 責任の回避

サリト氏の証言は、シーラや「マムズ」の崩壊後の行為、およびOsho International Foundation(OIF)の現在の行動に、責任の回避という共通のテーマがあることを示しています。

  • ‌過去の権威の逃亡:‌‌ コミュニティの権威者であったシーラとその一団は、連邦捜査官が動いた際に逃亡し、その場に残されたサリト氏に混乱と恐怖を残しました。
  • ‌OIFによる法的責任回避:‌‌ OIFは、ラジニーシの教え(書籍やSNS)を宣伝して資金を得ながらも、虐待の被害者に対する説明責任を、コミュニティが後に設立されたため‌‌「直接的な血統がない」‌‌として法律的に回避しようとしています。サリト氏はこれを「ごまかし」(smoke and mirrors)だと感じています。

シーラと「マムズ」は、ラジニーシの教えを実行する上で、コミュニティ内の道徳的・倫理的な規範を歪め、未成年者が性的虐待の危険にさらされていることを知りながら、‌‌自らの権威を維持するためにそれを黙認し、秘密裏に管理しようとした‌‌ことが示されています。

トラウマと治療、説明責任

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提供された情報源は、元コミュニティの子供であるサリト・キャロル氏の証言に基づき、ラジニーシプラムでの生活によって生じた‌‌トラウマの深さ‌‌、その‌‌治癒(ヒーリング)の過程‌‌、そして運動の後継組織(Osho International Foundation: OIF)を含む関係者に対する‌‌アカウンタビリティ(説明責任)‌‌の必要性について、包括的な視点を提供sho International Foundation: OIF)を含む関係者に対する‌‌アカウンタビリティ(説明責任)‌‌の必要性について、包括的な視点を提供しています。

1. トラウマの性質と深さ

サリト氏の証言は、肉体的および精神的な虐待が彼女の人生に与えた長期的な影響を明らかにしています。

虐待とトラウマの起源

  • ‌性的虐待の経験:‌‌ サリト氏は12歳の時、コミュニティ内の29歳の成人男性に強姦されました。彼女は当初これをロマンスだと誤解し、自分が「特別に選ばれた」と感じていましたが、後にこの男性が‌‌悪名高い女たらし‌‌であり‌‌既知のペドファイル‌‌であったことを知りました。
  • ‌内面の腐食と不信感:‌‌ この性的行為が数年間続いた結果、彼女は「腐食した (corroded)」感覚、つまり「侵略された (invaded)」感覚を覚えました。この経験の長期的な影響として、彼女の心には「‌‌不信感‌‌」が深く刻まれ、特に男性に対して信頼を築くことが非常に困難になりました。
  • ‌純粋さの喪失:‌‌ 彼女は自分がかつて「非常に純粋で無邪気な少女」であったが、この出来事によって‌‌「疲れ果ててしまった (jaded)」‌‌と感じています。彼女は、この男性が自分の「無邪気さ」と「信頼」を盗んだと考えています。
  • ‌トラウマの常態化:‌‌ インドでの最初の性的な経験は、その後の虐待の深刻さに比べて「非常に軽微」であると感じるほど、‌‌コミュニティの条件付け(conditioning)‌‌がなされていました。

治癒を妨げる要素

  • ‌コミュニティによる非難:‌‌ 虐待を経験したにもかかわらず、コミュニティの文化は、サリト氏が抱く感情や苦痛について「私が悪い」と非難するものでした。
  • ‌スピリチュアル・バイパス:‌‌ もし「精神的(スピリチュアル)であれば、ただ手放すことができただろう」という、‌‌「スピリチュアル・バイパス」‌‌による‌‌被害者非難(victim blaming)‌‌がまかり通っていました。
  • ‌役割の演技:‌‌ 彼女は40年間もの間、多くの人々が自分になってほしかった「‌‌完璧なカルトの子供‌‌」の役割を演じてきたと述べています。トラウマには「恥」が伴うと感じていました。

2. 治癒と回復のプロセス

サリト氏が沈黙を破り、回顧録を出版し、公に語る決断をしたことは、トラウマを乗り越えるための重要な行為です。

  • ‌長いプロセス:‌‌ 彼女が沈黙を破るまでに40年かかったのは、‌‌処理すべき多くのトラウマ‌‌と、彼女を押しとどめていた‌‌多くの恐れ‌‌があったためです。
  • ‌「荷降ろし」:‌‌ 執筆の動機の一つは、トラウマを「‌‌荷降ろし(unload)‌‌」することであり、またトラウマが決して「永遠に台無しになった」ことを意味するのではないと世間に示すことでした。
  • ‌自己認識と受容:‌‌ 治癒の最初のステップは、自分が‌‌人生の形成期をカルトで過ごし‌‌、‌‌性的虐待の被害者であった‌‌という事実に「折り合いをつける」ことでした。その後の数年間は「怒り」と「深い悲しみ(grief)」、そして長年の‌‌トラウマセラピー‌‌を経て、現在は「受容」と「今、可能な限り最高の人生を送りたいという願い」の段階にあります。
  • ‌レジリエンス(回復力):‌‌ 彼女は、自分のサバイバー精神が、常に見張り、観察者でなければならなかった人生全体によって培われた結果だと説明しています。
  • ‌内なる声との対峙:‌‌ 彼女の中には、今でも「あなたはやりすぎている」「放っておくべきだった」というカルトの考え方から来る声がありますが、彼女はそれらが「ショーを動かす(run the show)」ことはないと述べています。
  • ‌愛を受け入れることの困難さ:‌‌ 彼女は、これほどのトラウマを抱えていると、「‌‌どうやって愛を受け入れるか‌‌」が最大の課題の一つだと述べています。なぜなら、「愛だと思っていたもの」が安全ではなかったため、自己防衛と脆弱性の排除が常態化してしまったからです。

3. アカウンタビリティ(説明責任)の要求

サリト氏が最も求めているのは、個人の加害者と、運動の後継組織であるOsho International Foundation(OIF)からの具体的な説明責任です。

加害者への要求

  • ‌加害者への手紙:‌‌ ドキュメンタリー『ワイルド・ワイルド・カントリー』公開後、サリト氏は自身を虐待した男性に、虐待を詳述し、‌‌責任を取るよう求める‌‌長い手紙を書きました。この男性は、今もOshoの代表として世界中を旅し、運動の「公的な顔」と見なされています。
  • ‌「許し」の拒否:‌‌ 彼女は、「ごめんなさい、愛と愛だけがこれを癒せる」と言い、加害者と一緒にセラピーを受けて前に進もうという考えを‌‌「通用しない(doesn't cut it)」‌‌として拒否しています。彼女の治癒は加害者との対話からは生まれていません。

Osho International Foundation (OIF) への要求

  • ‌具体的な説明責任の必要性:‌‌ 彼女が求める「意味のある説明責任」は、‌‌単なる謝罪‌‌に留まらず、より具体的な行動を伴うべきです。
  • ‌金銭的補償:‌‌ OIFは、サリト氏や他の被害者がトラウマに対処し、その費用を支払うための‌‌金銭的補償‌‌を提供すべきだと考えています。
  • ‌責任回避の試み:‌‌ OIFは、オレゴン時代の後に設立された組織であるため、‌‌「直接的な血統がない」‌‌という理由で法的責任を回避しようとしています。
  • ‌OIFへの批判:‌‌ サリト氏は、OIFがOshoの知的財産、名前、教え(250冊の書籍、数百万人のフォロワーを持つSNSチャンネル)を所有し、‌‌資金調達の手段‌‌として宣伝していることを指摘しています。彼女は、責任を回避するこの姿勢を「‌‌ごまかし(smoke and mirrors)‌‌」だと感じています。
  • ‌真のスピリチュアル・ムーブメントとしての行動要求:‌‌ 彼女はOIFに対し、「もし本当に精神的な運動であるならば、‌‌言行を一致させ(walk the walk)‌‌、自分や仲間たちにとって事態を正すために何かをすべきだ」と強く求めています。彼女は、虐待をどのように見ているか、何をしようとしているか、将来これを防ぐために何をしようとしているかについて、‌‌公的な声明‌‌を出すよう要求しています。

サリト氏の証言は、カルトの崩壊から40年が経過した後も、‌‌被害者のトラウマが持続している現実‌‌と、‌‌加害者および組織が過去の行動に対する責任を果たすことを拒否している現状‌‌に対する、痛切な抗議となっています。

サリト・キャロル氏の証言に基づくラジニーシ運動の時系列史

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序文

本稿は、インド出身の思想家バグワン・シュリ・ラジニーシが率いた新宗教運動と、その物議を醸したオレゴン州のコミューン「ラジニーシプーラム」の主要な出来事を時系列で記録するものである。本稿の最大の特徴は、子供の頃にこの運動に参加したサリト・キャロル氏の個人的かつ類まれな視点を通して、その歴史を再構築している点にある。彼女の証言のみに基づき、運動の黎明期から、ラジニーシプーラムの崩壊、そして最も若いメンバーたちが直面した長期的な余波までを辿っていく。

1. 黎明期とインド・アシュラム時代(1970年代半ば〜1981年)

この時代は、精神的解放を求める西洋人を惹きつけたラジニーシ運動がインドで形成された初期段階をカバーしている。本章では、サリト・キャロル氏が幼少期にどのようにしてこのコミュニティと出会ったかを詳述する。この基礎を築いた時代が、後にオレゴン州のコミューンを定義することになる文化的規範を確立したことを強調したい。

1.1. 運動の始まり(1970年代半ば)

バグワン・シュリ・ラジニーシが率いるこの運動は、1970年代半ばに西洋人の信奉者を集め始めた。その魅力は、ヒッピー運動後の時代精神と深く結びついていた。信奉者たちは、伝統的な社会的制約からの反発として、精神的な意味、性の解放、そして新しい生き方を模索していた。多くのグルが瞑想や苦行を説く中で、ラジニーシは「人生を最大限に祝福し、生きよ」と教えた。この禁欲主義を排した解放のメッセージが、より構造化された社会で育った西洋人にとって強い魅力となったのである。

1.2. インドへの移住(サリト氏、9歳)

サリト氏と彼女の母親は、自らを「さすらいのヒッピー」と称し、インドのプネーにあるアシュラムへと旅立った。当時9歳だったサリト氏にとって、この旅は当初3ヶ月の夏休みの予定だった。しかし、二人はその地に魅了され、結果的に3年間滞在することになった。

1.3. アシュラムでの生活と最初の性的虐待(サリト氏、10歳)

プネーのアシュラムでの初期の生活は、サリト氏にとって肯定的なものだった。彼女は初めて真の友人を見つけ、帰属意識を抱いた。しかし、10歳の時、ある警備員が彼女にフレンチキスを教えたことで、最初の性的虐待を経験する。コミューンでは性的なタブーを否定する教えが徹底されており、大人と子供の性的な交流も問題視されなかった。この環境が、このような出来事を正常なこととして彼女に認識させた。彼女自身の証言によれば、このインドでの出来事は、後にオレゴンで経験する虐待の深刻さと比較すると「些細なこと」に思えるほどであり、これは虐待が段階的に常態化していく環境の恐ろしさを示している。

1.4. イニシエーションと改名

サリト氏はイニシエーション(入信儀式)でバグワンと直接対面した。この儀式で、彼女の元の名前である「ジェニファー」は「マ・プレム・サリト」へと変更された。「マ」は女性であることを、「プレム」は「愛」を、「サリト」は「川」を意味する。この改名は、古い自己を捨て、弟子として新たなアイデンティティを受け入れるという象徴的な行為であった。

1.5. インド政府との問題と移転

コミューンは、未払いの税金問題をはじめとするインド政府との対立を抱えていた。これらの問題が積み重なり、最終的にインドからの撤退を余儀なくされた。

このインドでの時代の終わりは、運動がアメリカ合衆国へと拠点を移し、さらに野心的なコミュニティを設立する新たな段階の幕開けとなった。

2. オレゴン・コミューン「ラジニーシプーラム」時代(1981年〜1985年)

オレゴンへの移転は、運動にとって拡大と同時に孤立を深める新たなフェーズの始まりであった。本章では、コミューン「ラジニーシプーラム」の設立から、サリト氏の10代のメンバーとしての生活、彼女や他の子供たちが耐えた組織的な虐待、そして最終的にコミュニティを崩壊へと導いた犯罪行為までを記録する。

2.1. オレゴンへの到着(サリト氏、12歳)

サリト氏は、「ビッグ・マディ牧場」として知られていた土地への32番目の移住者としてオレゴンに到着した。当時わずか12歳で、母親よりも先に現地入りした。彼女が目の当たりにしたのは、インドの喧騒とは対照的な、広大で孤立した風景であり、その光景は「カウボーイの国」「美しい荒れ地」として彼女の記憶に刻まれた。

2.2. コミューンでの労働と教育

ラジニーシプーラムの若者たちの日常生活は労働が中心だった。「壁のない学校」という概念は、主流社会の構造を思想的に拒絶すると同時に、コミューンの野心的な建設・管理プロジェクトのために無給の児童労働力を供給するという、実用的な二重の目的を果たしていた。子供たちは正規の教育を受ける代わりに、大人と共に一日12時間から16時間、事務作業や建設作業などに従事した。

2.3. 組織的な性的虐待の常態化(サリト氏、12歳から)

サリト氏が12歳の時、29歳の男性にレイプされたことを皮切りに、組織的な性的虐待が始まった。彼女の証言から以下の重要な点が明らかになっている。

  • この虐待は、性の開放性を正常と見なすコミューンの文化の中で行われたため、彼女は当初それを「ロマンス」だと信じ込んでいた。この認識は、特に若い女性にとって、性的な注目を浴びることが自己の価値と結びつけられ、同意年齢という概念が意図的に消去された文化の直接的な産物であった。
  • 「ママたち」として知られるコミューンの女性指導者層は虐待を認識していたが、それを止めるのではなく、子供たちに「慎重に行動するように」と指示するだけだった。
  • 指導者層は、サリト氏が12歳で避妊具を受け取れるよう手配した。
  • この虐待は広範囲に及んでおり、他の多くの10代の少年少女も被害に遭っていた。彼女が語った衝撃的な統計は以下の通りである。
    • サリト氏自身の経験: コミューンを離れるまでに15人の成人男性と性的関係を持った。
    • 同年代の友人の経験: ある友人は、16歳になるまでに150人の成人男性と関係を持ったと報告している。
    • 「リスト」の存在: 指導者層は、10代の若者と関係を持つ少なくとも100人の成人男性のリストを作成した。彼らは会合に呼び出され、虐待をやめるよう命じるのではなく、ただ「慎重に行動する」ようにとだけ指示された。

2.4. コミューンの暗部と犯罪行為

コミューンでは、信者を米国に呼び寄せるための偽装結婚が日常的に行われていた。サリト氏も当時からこの事実を認識していた。さらに、1984年には指導部によるバイオテロ事件(地域住民を狙ったサラダバーへの毒物混入)が発生した。サリト氏は事件発生当時はその詳細を知らなかったが、この出来事は指導部内の深刻な腐敗を象徴していた。

2.5. コミューンの崩壊(1985年、サリト氏、16歳)

1985年、ラジニーシプーラムは崩壊した。バグワンの秘書であったシーラとその側近たちが真夜中に逃亡し、連邦捜査官がコミューンに立ち入り、その後バグワン自身も国外退去となった。当時16歳だったサリト氏は、恐怖と混乱に襲われた。この見当識障害の根源は、「ママたち」から教祖自身に至るまで、すべての権威者が突如として失踪または失脚した「トータル・インスティテューション(全制的施設)」の完全な崩壊にあった。それは内部で育った者にとって、深刻な存在論的空白を生み出した。

コミューンの劇的な崩壊は、その最も若く脆弱なメンバーたちにとって、その後の人生における深刻な個人的挑戦の始まりを意味していた。

3. 崩壊後と真実の探求(1985年〜現在)

ラジニーシプーラムの崩壊は、16歳のサリト氏を含む子供たちを、外部の世界で生きる術を持たないまま置き去りにした。本最終章では、彼女が生き残るための苦闘、驚くべき回復と人生再建の道のり、そして自身や他の被害者が受けた虐待に対する説明責任を求め、沈黙を破り続ける現在の闘いを詳述する。

3.1. 外の世界でのサバイバル(サリト氏、16歳以降)

崩壊直後、サリト氏は計り知れない困難に直面した。その主な課題は以下の通りである。

  • 資源の欠如: 所持金はわずか300ドル、正規の教育も支援システムもないまま世間に放り出された。
  • 基礎知識の欠落: 太陽がどちらの方角に沈むのかといった、基本的な知識さえも欠いていた。
  • 搾取のリスク: 生き延びるため、同年代の友人たちの何人かが選んだ道であるセックスワークに引き込まれる差し迫った危険に直面した。ヒッチハイク中には「50ドル稼がないか?」と声をかけられることもあり、「市場価値がある唯一のものは自分の身体だった」という厳しい現実に直面した。

3.2. 人生の再建

サリト氏は驚異的な回復力で人生を再建していったが、その道のりは平坦ではなかった。疎遠だった祖父と再会した当初、彼女は「教育は洗脳だ」というコミューンの教えを繰り返し、高校卒業資格(GED)の取得に抵抗した。これは、彼女が自己を再構築するために戦わなければならなかった、根深い内面的な思想闘争を物語っている。最終的に彼女は19歳でGEDを取得し、大学ではオールAの成績を収めた。その後、テクニカルライター、鍼灸師、不動産業など、複数の分野で成功を収め、その強靭な精神力を証明した。

3.3. 沈黙を破る(崩壊から40年後)

サリト氏が40年間の沈黙を破るきっかけとなったのは、2018年に公開されたNetflixのドキュメンタリー『ワイルド・ワイルド・カントリー』であった。この作品は政治的な出来事については正確だったが、コミューンの子供たちの物語を完全に無視していた。この省略が、彼女に自身の回顧録『In the Shadow of Enlightenment(悟りの影で)』を執筆する決意をさせた。

3.4. 説明責任の追及

サリト氏は説明責任を求める活動を続けている。彼女は主たる加害者に手紙を送ったが、返答はなかった。公の場で発言すると、Oshoコミュニティの一部からは「スピリチュアル・バイパス」や被害者非難といった反応が返ってきた。スピリチュアル・バイパスとは、宗教的・精神的な概念を用いて正当な苦情や心理的トラウマを退け、無効化する、高圧的な集団に共通する防衛機制であり、集団の理想化されたイメージと指導者を守るために機能する。さらに、Osho国際財団に対する集団訴訟は、同財団が「直接的な法的系譜がない」と主張し、ラジニーシプーラムを運営していた組織とは法的に別個の存在であると見なすことで、責任を回避しようとしているため、法的な障壁に直面している。

3.5. 現代へのメッセージ

サリト・キャロル氏が現代に伝えたい最終的なメッセージは明確である。彼女は、精神的な運動の「輝かしい見せかけ」の下に隠された、虐待と腐敗という暗い側面を人々に理解してほしいと願っている。そして、Osho国際財団に対し、責任を取ることで「有言実行」し、傷つけられた子供たちの癒しを支援するための金銭的補償を行うよう、直接的に強く求めている。

ラジニーシ運動の主要人物と関係者:サリト・キャロル氏の証言に基づく概要

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  1. 序論:ラジニーシ運動における人間関係の構図

この文書は、1980年代に米国オレゴン州で一大コミューンを築き、そして崩壊した精神運動「ラジニーシ運動」に関わった主要な人物と団体を特定し、その役割と相互関係を解説するものである。本稿で展開される分析は、コミューンで子供時代を過ごしたサリト・キャロル氏が、40年の時を経て行った証言にその全てを依拠している。彼女の視点を通して、指導者のカリスマ性、信奉者の献身、そして組織の腐敗が、理想として掲げられた「ユートピア」と、子供たちが経験した「虐待とネグレクト」という現実の乖離をいかに生み出したかが見えてくる。これから、運動の光と影を体現する人物たちの姿を、キャロル氏の言葉を基に解き明かしていく。

  1. 中心的指導者と証言者

ラジニーシ運動を理解する上で、その創始者である精神的指導者と、その内実を告発する中心的な証言者の両者に焦点を当てることは不可欠である。一方は「解放」と「祝福」を説き、世界中から信奉者を集めた光の象徴であり、もう一方はその光の影で起きたトラウマを背負い、沈黙を破った闇の告発者である。彼らの存在そのものが、この運動が内包していた根源的な矛盾を物語っている。

2.1. バグワン・シュリ・ラジニーシ (Bhagwan Shri Rajneesh) / オショ (Osho)

バグワン・シュリ・ラジニーシ(後にオショと改名)は、インド出身のグルであり、1970年代半ばから西洋人の信奉者を集め、この精神運動を創始した。彼は「解放」「悟り」「人生の祝福」といった教えを説き、特に性のタブーを否定する思想は、西洋の伝統的な価値観に反発する若者たちに強くアピールした。しかし、その精神的な教えとは裏腹に、最終的には96台ものロールスロイスを所有し、「1年のうち毎日違う車に乗れるように365台を所有する」ことを目標に掲げるなど、極端な物質主義と誇大妄想的な側面を露呈させた人物として描かれている。

2.2. サリト・キャロル (Sarito Carroll)

サリト・キャロル氏は、この物語の中心的な証言者である。12歳でオレゴン州のコミューン「ラジニーシプラム」に加わった彼女は、回顧録『In the Shadow of Enlightenment』の著者でもある。コミューン内で複数の成人男性から性的虐待を受けたサバイバーであり、40年間の沈黙を破って、これまでほとんど語られることのなかった子供たちの視点から運動の実態を告発している。元の名はジェニファー(Jennifer)だが、入信時に「サリト」という新しい名前を与えられた。キャロル氏は自身の若い頃の強さについて、「もし彼女がそうでなかったら、今の私はどうなっていたかわからない」と振り返り、その証言に深みを与えている。

この二人の関係性、すなわち「神」と崇められた指導者と、その教えが許容した環境下で心身を蝕まれた子供という構図は、運動全体の欺瞞と矛盾を浮き彫りにする。次に、バグワンの教えを現場で実行し、巨大な組織を運営したコミューンの指導者層へと分析を進める。

  1. コミューン指導部と権力構造

ラジニーシ運動という巨大な組織は、創始者バグワンのカリスマ性だけで成り立っていたわけではない。彼の教えを現実世界で実行し、数千人規模のコミューンを運営したのは、彼が信頼を置いた女性指導者たちであった。ここでは、コミューン内部の権力構造と、その頂点に君臨した人物の影響力について、キャロル氏の証言から分析する。

3.1. シーラ (Sheila)

シーラは、バグワンの個人秘書であり、事実上コミューンの最高責任者(ナンバー2)として絶対的な権力を握っていた。キャロル氏によれば、当初のシーラは「火の玉のような(firecracker)」エネルギーと魅力に満ちた人物だったが、そのカリスマ性の裏側には「厳格な権威主義」があり、次第に威圧的な支配者へと変貌した。彼女は、ティーンエイジャーの少女たちと性的関係を持っていた成人男性少なくとも100人のリストを提示された際、それを止めるどころか、加害者たちに「慎重に行動するように(to be discreet)」と指示するに留めた。これは、組織的な隠蔽工作であり、最終的に連邦捜査官による捜査が本格化する直前、彼女は側近と共に「真夜中に」国外へ逃亡した。

3.2. ザ・マムズ (The Moms)

ザ・マムズは、シーラの下でコミューンの各部門(「テンプル」と呼ばれた)を運営していた女性リーダーたちの総称である。キャロル氏は、12歳で処女を失った後わずか2週間で避妊具を与えられた時のことを証言しているが、「誰も私のところに来て『あなたは12歳よ』とは言わなかった」。子供たちの状況を把握し、避妊具の手配まで行いながら、虐待を止めるための介入を一切しなかった彼女たちの存在は、コミューンにおける大人たちの責任の完全な放棄を象徴している。

この厳格な内部の権力構造は、信奉者たちを外部の世界から完全に断絶させた。シーラが外部の人間を「我々が憎むべき偏見に満ちた人々(bigots)」だと教え込んだように、指導部は意図的に「我々対彼ら」という対立構造を作り出し、独自の倫理観を植え付けたのである。次に、コミューンを取り巻く外部の関係者や、内部にいながらも権力の中枢から離れた人々の視点を見ていく。

  1. 外部および周辺の人物

コミューンの実態を多角的に理解するためには、その内部だけでなく、外部や周縁にいた人々の視点も重要である。彼らの存在を通して、コミューンの異常な孤立性や、理想とはかけ離れた内部の人間関係がより鮮明に浮かび上がってくる。

4.1. サリトの母親 (Sarito's Mother)

キャロル氏の母親は、娘をインドのアシュラムへと連れて行った張本人であった。しかし、コミューン内では「子供は親ではなくコミューンに属する」という教義に傾倒し、キャロル氏によれば「4年間、ほとんど交流がなかった」ほど娘との関係は疎遠になった。この教えは、多くの親にとって「解放」であり「安堵」であったとキャロル氏は指摘しており、自分の娘が性的虐待の被害に遭っていることを深刻な問題として認識していなかった親たちの心理状態をうかがわせる。

4.2. オショ国際財団 (Osho International Foundation)

オショ国際財団は、バグワン(オショ)の名前や著作権などの知的財産を所有し、現在も活動を続ける後継組織である。彼らは100万人の登録者を持つYouTubeチャンネルや200万人のフォロワーを持つInstagramを運営するなど、オショのブランドで利益を上げ続けている。しかし、オレゴン時代のコミューンとの法的な連続性がないことを盾に、虐待被害者に対する責任や金銭的な補償を拒否している。キャロル氏は、この組織が過去の過ちを認めるべきだと訴えている。

4.3. ローレル・ポーター (Laurel Porter)

ローレル・ポーター氏は、KGWニュースのインタビュアーである。彼女は、サリト・キャロル氏に対して詳細な質問を投げかけ、40年間にわたる彼女の記憶と心情を丁寧に引き出し、この貴重な証言を記録に残す上で聞き手としての重要な役割を果たした。

これら全ての人物たちが織りなす複雑な人間模様は、精神的な「解放」の探求が、いかにして最も無力な者たちを標的とした、深刻な心理的・肉体的束縛のシステムを皮肉にも生み出してしまったのかを克明に描き出している。

情報源

動画(52:29)

Rajneesh Survivor: Full interview with Sarito Carroll

https://www.youtube.com/watch?v=A0yBxRhNUWc

232,800 views 2025/04/25

Sarito Carroll talks with Laural Porter about the abuse she suffered in the early 1980s while a child at Rajneeshpuram, the commune in central Oregon. In a new memoir, Carroll breaks her silence about her experience growing up in the cult of Baghwan Shree Rajneesh.

(2025-09-25)