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Rajneesh(OSHO) の「中身が空っぽな教え」

· 約85分

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前置き+コメント

この動画で初めて Rajneesh の生の喋りを聞いたが、インド人にしては珍しく、とても聞き取り易い英語で喋っている。

喋っている内容から陳腐なタワゴトを除くと、内実は「空っぽ」。何も無い。内実が何も無いから、聞き手は(それまでに読んだり聞いてきた)精神世界のタワゴトの解釈をそこに勝手にぶち込んで「深い真理」を語っていると錯覚する。

本人が悟ったと確信して(or 確信した振りを装って)、どんなタワゴトでも、馬鹿げた内容でも、強烈な印象を与えるように言い切った者が勝つ。断言する内容が馬鹿げているほど、常識から逸脱しているほど、深い逆説的真理であるかのように受け取られるという倒錯が成立するのが、宗教/精神世界 業界の習わし。

だが、たぶん Rajneesh の悟りは偽(=捏造)ではない。つまり正真正銘の悟りだと判断する。本来、悟りに本物も偽物もない。全ての悟りは(宗教的伝統における悟りという規範に沿った(*1))意識障害の産物ゆえ、全ての悟りは真理でも有益でもない。有害かつ無益。Rajneesh だけが「堕ちたグル」なのではない。全ての悟ったグルは例外なく堕ちている。

真理でないものを真理だと主張している段階で、有害かつ無益。

真理は最大の虚構ゆえ、もともと実在しない。その実在しない虚構の「真理」を超越的な認知力(=智慧)で体得した…そう主張するのが有象無象の「悟り」の正体。当然、悟りなるものは、まるごとタワゴトに堕する。そして、そのタワゴトを皆が崇める。宗教学者はそのタワゴトに額づき、その背後の教理を宗教学的に緻密に分析する。

倒錯の極み。

(*1)

「宗教的伝統の規範に沿わない」悟りも存在するが、それは「悪霊に憑かれた」とか、「発狂した」と見なされる。

つまり,意識障害という点では現象は同じだが、「宗教的伝統の規範」に沿っているか、沿っていないかというフィルターで選り分けて、

  • 悟った
  • 悪霊に取り憑かれた、発狂した

と見なされてきた。

要旨

AI

このソースは、インドの精神的指導者オショウによる、‌‌人間の無意識な生き方への痛烈な警告と目覚めへの誘い‌‌を記録したものです。

彼は、人々が社会や教育に洗脳された「ロボット」のような状態で、他人の期待に応えるだけの‌‌偽りの人生‌‌を送っていると指摘します。真の幸福は外的な成功ではなく、‌‌ありのままの自分に戻ること‌‌で得られる自然な状態であり、瞑想とは日常生活のあらゆる瞬間で目覚めていることだと説いています。

オショウは、伝統的な宗教や道徳を否定し、世俗的な喜びと深い静寂を両立させる‌‌「ゾルバ・ザ・ブッダ」‌‌という新しい人間像を提唱しています。最終的に、読者に対して‌‌既存の価値観を疑い‌‌、自分自身の内なる真実と自由を今この瞬間に取り戻すよう強く促す内容となっています。

目次

  1. 前置き+コメント
    1. (*1)
  2. 要旨
  3. OSHOの教えに関するブリーフィング:意識的な覚醒への呼びかけ
    1. エグゼクティブ・サマリー
    2. 1. 人類の現状:「眠り」という無意識状態
    3. 2. 幸福の幻想と本来の喜び
    4. 3. 覚醒への道:停止と瞑想
    5. 4. 「ゾルバ・ザ・ブッダ」:世俗と精神の統合
    6. 5. 知からの解放と純粋な「見ること」
    7. 6. 意識的な個人の危険性と権威への反逆
    8. 7. 行動への呼びかけ:今、この瞬間を生きる
  4. 目覚めへの対話:Oshoと懐疑的な学生
    1. 序章:出会いと疑念
    2. 1. 「眠っている」という挑発
    3. 2. Oshoの応答:条件なき幸福の本質
    4. 3. セクションの結び
    5. 2. 責任という名の鎖
    6. 3. ゾルバ・ザ・ブッダ:統合された人間
    7. 4. 「いかにして?」から「ただ、ある」へ
    8. 5. 結論:対話の終わり、旅の始まり
  5. 現代人の現状 : 「眠り」の状態
    1. 1. 目を開けたまま「睡眠時随行症(歩き回る)」である状態
    2. 2. 「仮面」と真の自己の窒息
    3. 3. 「眠り」を維持する社会の仕組み
    4. 4. 目覚めへの障壁:痛みの回避
  6. 幸福の誤解
    1. 1. 「理由のある幸せ」という誤解
    2. 2. 幸福は「獲得するもの」であるという刷り込み
    3. 3. 「追い求めること」自体が幸福を遠ざける
    4. 4. 幸福は「外側」にあるという錯覚
  7. 真の瞑想と目覚め
    1. 1. 「真の瞑想」とは何か
    2. 2. 「目覚め(悟り)」の本質
    3. 3. 目覚めへの唯一の道:自己の反逆
  8. 新しい生き方 : ゾルバ・ザ・ブッダ
    1. 1. 「ゾルバ」と「ブッダ」の統合
    2. 2. 「世界の中にありながら、世界の一部ではない」生き方
    3. 3. 社会的条件付けからの反逆
    4. 4. 理由のない至福の体現
  9. 条件付けからの解放
    1. 1. 条件付けの正体:ロボット化された生
    2. 2. 解放のプロセス:「足し算」ではなく「引き算」
    3. 3. 解放への鍵:反逆と疑い
    4. 4. 解放に伴う痛み
  10. 革命的メッセージ
    1. 1. 既存のあらゆる権威への反逆
    2. 2. 「脱条件付け」という破壊的プロセス
    3. 3. 「ゾルバ・ザ・ブッダ」:二分法の打破
    4. 4. 信念(Belief)ではなく疑い(Doubt)
  11. 結論 : 今ここでの目覚め
    1. 1. 「今ここ」という唯一の現実
    2. 2. 「すでにそうである」ことへの気づき
    3. 3. 個人の責任と選択
    4. 4. 結論:機械的な生から人間的な生へ
  12. 情報源

OSHOの教えに関するブリーフィング:意識的な覚醒への呼びかけ

AI

エグゼクティブ・サマリー

本ブリーフィングは、OSHOの講話から抽出された核心的なテーマと思想を統合したものである。中心的な主張は、現代人の大多数が、社会、親、文化によってプログラムされた「眠り」という無意識の状態で人生を送っており、自らの真の人生を生きていないという点にある。OSHOの目的は、慰めを与えることではなく、この「眠り」から人々を揺さぶり起こすことにある。

覚醒への道は、快適なものではなく、自らの人生が嘘であったという痛みを伴う認識を必要とする。しかし、この痛みは新たな意識の誕生に不可欠なものとされる。OSHOは、伝統的な宗教が説くような世俗の放棄を否定し、「ゾルバ・ザ・ブッダ」という概念を提唱する。これは、人生を全身で享受する「ゾルバ」と、内なる観察者である「ブッダ」を統合した、完全な人間像である。

最終的に、OSHOは盲目的な信仰や追従を断固として拒絶する。彼は、信じることよりも疑うこと、服従するよりも反逆することを奨励し、聞き手自身が自らの真実を見出すよう促す。覚醒は、外部から与えられるものではなく、今この瞬間に、個々人が自らの内側で決断し、行動することによってのみ達成される個人の責任であると結論付けている。

1. 人類の現状:「眠り」という無意識状態

OSHOの思想の根幹をなすのは、ほとんどの人間が「眠っている」という認識である。これは比喩的な表現であり、物理的に目が覚めている状態であっても、精神的には無意識の自動人形(ロボット)として生きていることを指す。

  • プログラムされた存在: 人々の選択(職業、結婚相手、欲望、恐怖)は、真に自らの意志によるものではなく、社会、親、文化からの条件付け、承認欲求、恐怖心によって決定されている。
  • 偽りの自己: 社会から与えられた役割(マスク)を演じることに終始し、その仮面の下で真の自己は窒息し、叫び声を上げている。しかし、人々はその叫びを聞くことなく、多忙さや恐れから耳を塞いでいる。
  • 「眠り」の自己認識: 眠っている人間は、常に自分は目覚めていると信じ込んでいる。自分が眠っていたという事実は、実際に目覚めた時に初めて認識される。この無意識状態こそが、人類最大の悲劇であるとOSHOは断言する。

引用: 「あなたは眠っている。そして、あなたはずっと眠り続けてきたのだ。あなたは、目が開いているから自分は起きていると思っている。仕事に行き、金を稼ぎ、責任を果たしているから意識があると思っている。しかし、言っておくが、あなたは夢遊病者なのだ。」

2. 幸福の幻想と本来の喜び

現代人が追い求める幸福は、真の幸福ではないとOSHOは指摘する。それは外部の条件に依存した、一時的な感情に過ぎない。

  • 条件付きの幸福: 昇進、新車、休暇など、何かを得ることで生じる幸福は、本物ではない。
  • 本来の喜び(Joy): 人間が生まれながらに持つ権利は、理由なき「喜び」である。それは、ただ生きていること、存在していること自体から湧き起こる幸福感であり、子供が持つ自然な状態に近い。
  • 失われた自然な状態: 社会は、「理由なく幸せでいてはいけない」「幸福は稼ぎ、達成し、値するものでなければならない」と教え込むことで、この本来の喜びを組織的に破壊した。
  • 「追いかける」ことの罠: 人々は幸福を追いかけるようになり、その結果、幸福はますます遠ざかっていく。金、成功、愛、承認を追い求め走り続ける中で、夕日や子供の笑顔といった、今この瞬間の美しさ、すなわち人生そのものを見失っている。

引用: 「幸福とは、追いかけられるものではない。幸福とは、あなた自身なのだ。追いかけるのをやめ、走るのをやめ、ただ『ある』とき、幸福はそこにある。」

3. 覚醒への道:停止と瞑想

覚醒への第一歩は、追いかけることを「やめる(Stop)」ことである。この「停止」こそが、OSHOの説く瞑想の本質である。

  • 瞑想としての「停止」: 瞑想とは、特定のポーズで座ることではなく、あらゆる瞬間に「存在する(being present)」こと、意識的であること、目覚めていることである。
  • 覚醒の痛み: 覚醒は快適なプロセスではない。これまで生きてきた人生が嘘であったこと、追い求めてきた成功が無意味であったこと、愛していると思っていた人々が自分を利用していただけだったことなど、厳しい真実を直視させられる。この痛みは、偽りの自己が死に、真の自己が生まれるための「産みの苦しみ」であり、避けるべきではない。
  • 責任の放棄ではない: 覚醒とは、責任や家族、仕事を放棄して世捨て人になることではない。これは伝統的な宗教が広めた嘘であるとOSHOは批判する。

4. 「ゾルバ・ザ・ブッダ」:世俗と精神の統合

OSHOは、二元論的な生き方を否定し、世俗的な生と精神的な生を統合した新しい人間像「ゾルバ・ザ・ブッダ」を提唱する。

  • 世俗にありて世俗にあらず: OSHOが教える生き方の真髄は、「世界の中にいながら、世界のものではない」状態である。責任を果たしながらも自由であり、働きながらも瞑想的であり、愛しながらも執着しない生き方を指す。
  • ゾルバとブッダの同時存在:
    • ゾルバ: 人生を楽しみ、踊り、愛し、創造する、世俗的なエネルギーの象徴。
    • ブッダ: 観察し、証人となり、意識的であり続け、自己を知る、精神的な覚醒の象徴。
  • 完全な人間: 「ゾルバかブッダか」ではなく、「ゾルバであり、かつブッダである」こと。この両極の同時存在こそが、分裂させられていない「全体的な人間(the whole person)」の姿である。神は天国にいるのではなく、今この瞬間、あらゆる場所に偏在している。

引用: 「ゾルバであれ…しかしまたブッダであれ…ゾルバかブッダかではなく、ゾルバとブッダ、その両方を同時に。これこそが完全な人間だ。」

5. 知からの解放と純粋な「見ること」

覚醒を妨げる最大の要因は、他者から与えられた「借り物の知識」であるとOSHOは説く。

  • 知識の雑然さ: 人間の心は、信念、イデオロギー、哲学など、自分のものではない借り物の知識で満たされている。これが混乱の原因である。
  • 無垢への回帰: これらの知識をすべて捨て去り、何も知らず、何も信じない、子供のような無垢な状態になることが求められる。好奇心に満ち、真実に対して開かれた状態である。
  • 悟りとは直接的な「見ること」: 悟り(Enlightenment)は、学習や修行によって達成されるものではなく、心を空にしたときに突如として明らかになる、純粋で直接的な「見ること」によって得られる。
  • 本来の自然な状態: 悟りは、獲得すべきものではなく、人間が常にそうであったにもかかわらず忘れてしまっている「本来の状態」である。OSHOの仕事は、何か新しいものを与えることではなく、偽りの層を剥ぎ取り、本来の自己を明らかにすることにある。

6. 意識的な個人の危険性と権威への反逆

OSHOは、覚醒した個人が既存の権力構造にとって「危険」な存在になると主張する。

  • 支配不能な個人: 無垢で、自由で、意識的な人間は、支配、操作、搾取することができない。彼らは社会のルールではなく、自らの真実に従って生きる。これが、宗教家や政治家がOSHOを恐れ、攻撃する理由である。
  • グル(導師)の否定: OSHOは、自身を権威とし、宗教を創り、崇拝することを明確に禁じる。彼の教えを利用し、実験することは奨励するが、盲目的に従うことは知性の死であると警告する。
  • 疑いと反逆の奨励:
    • 宗教が「信じよ」と言うのに対し、OSHOは「疑え」と言う。
    • 伝統的な教師が「従え」と言うのに対し、OSHOは「反逆せよ」と言う。
    • 古い経典が「従え」と言うのに対し、OSHOは「汝自身の道を見出せ」と言う。

引用: 「宗教家は『信じよ』と言う。私は『疑え』と言う。伝統的な教師は『従え』と言う。私は『反逆せよ』と言う。」

7. 行動への呼びかけ:今、この瞬間を生きる

OSHOのメッセージは、理論ではなく、即時の行動を促す「目覚めの呼び声」である。

  • 個人の選択と責任: 覚醒は、他者によってもたらされるものではなく、自分自身で決断し、実行するしかない。OSHOは「扉を示すことはできるが、通り抜けるのはあなた自身だ」と語る。
  • 「今、ここ」の重要性: 完璧な状況を待っていてはならない。覚醒は「今、この瞬間」に始めるべきものである。なぜなら、この瞬間こそが人生であり、永遠だからだ。
  • 覚醒の報酬: 勇気を持って目覚めるならば、想像を絶する喜び、自由、平和を発見する。それは外部の何かに依存しない、自分自身の本質から来る喜びである。
  • 宇宙的なジョーク: 目覚めたとき、人は笑うだろう。幸福そのものであったにもかかわらず幸福を探し回っていたこと、生まれただけで成功していたにもかかわらず成功を追いかけていたこと、究極の神秘であったにもかかわらず「何者か」になろうとしていたことの滑稽さに気づき、その笑いの中で真に自由になる。

目覚めへの対話:Oshoと懐疑的な学生

AI

序章:出会いと疑念

木漏れ日が差し込む静かな庭園で、一人の若い学生が、物議を醸す神秘家Oshoの前に座っていた。学生の心は、好奇心と懐疑心で揺れ動いていた。Oshoの言葉には真実の響きがあるように感じられるが、その過激さは、彼がこれまで築き上げてきた価値観を根底から覆すものだった。沈黙を破り、彼は意を決して、長らく胸に秘めていた問いを投げかける。この対話は、単なる知識の交換ではなく、目覚めへの扉を開くための、魂のぶつかり合いの始まりだった。

1. 「眠っている」という挑発

1. 学生の疑問:成功という名の眠り

学生はまっすぐにOshoを見つめ、丁寧だが挑戦的な口調で切り出した。

「Osho、あなたは私たちが『眠っている』と仰います。しかし、私には誇れる仕事があり、愛する家族がいます。社会的な責任も果たしています。これが『眠り』だとは、到底思えません。私は自分の人生を確かに歩んでいると感じています。」

2. Oshoの応答:条件なき幸福の本質

Oshoの笑みは穏やかだったが、その眼差しは学生の魂の奥底まで見透かすようだった。

「君が言うその成功は、素晴らしいものだろう。だが、問いたい。君は本当に、心の底から幸福だろうか?昇進したから、新しい車を買ったから、休暇に出かけたから、といった理由付きの幸福ではない。何一つ理由がなく、ただ在ることそのものに感じる幸福だ。

思い出してごらん。子供が生まれたとき、彼はただ幸福だ。呼吸をすること、存在すること、ただそれだけで喜びに満ちている。理由などいらない。幸福は君の自然な状態であり、生まれ持った権利なのだ。

しかし社会は君に教え込んだ。『幸福は努力して稼ぐものだ』と。君はその教えを信じ、幸福を追いかけ始めた。金、成功、承認を求めて走り、走り、走り続けている。そして走れば走るほど、君は今この瞬間の美しさを見失う。君自身の人生を見失う。なぜなら幸福とは追いかけるものではなく、君が『それ』そのものだからだ。君が走るのをやめ、ただ『在る』とき、幸福は常にそこにあったことに気づくだろう。」

3. セクションの結び

学生はOshoの言葉に深く考え込んだ。苛立ちと、同時に抗いがたい魅力とを感じていた。「眠り」という概念が、社会的な成功とは別の次元にある内面的な状態を指すことは理解できた。しかし、それが自分の具体的な日々の責任や生活とどう結びつくのか、まだ完全には腑に落ちていなかった。

2. 責任という名の鎖

1. 学生の反論:現実世界からの逃避ではないか?

学生は、最も現実的な懸念を口にした。

「あなたの教えは、魅力的ではありますが、まるで責任を放棄し、社会から逃避せよと言っているように聞こえます。私には支払うべき請求書があり、養うべき子供たちがいます。すべてを投げ出して『ただ在る』ことなど、現実的には不可能です。これは一種の理想論ではないのですか?」

2. Oshoの核心:世界の中にありて、世界のものであらず

Oshoの眼差しが鋭くなった。しかしその声は、より一層の愛情を帯びていた。

「誰が、目覚めることが責任を放棄することだと言ったかね?誰が、意識的になることが人生から逃げることだと教えたのかね?

それは、伝統的な宗教が君たちに語ってきた嘘だ。古い聖職者たちが君たちに飲ませてきた毒だ。

私が教えているのは、まったく違うことだ。ヒマラヤの洞窟に籠もることではない。私が教えているのは、いわば‌‌『世界の中にありて、世界のものであらず』‌‌という生きる術だ。君の責任を果たしなさい、しかしそれに執着せず自由であり続けなさい。働きなさい、しかしその中で瞑想的であり続けなさい。愛しなさい、しかしそれに束縛されず、とらわれのないままでいなさい。

これは外面的な世界を変える革命ではない。君の内面の世界を変容させる革命なのだ。君の内面が変われば、すべてが変わる。」

3. セクションの結び

「世界の中にありて、世界のものであらず」。この逆説的な言葉は、学生の心に深く響いた。それは単なる逃避ではなく、より高度な生き方の可能性を示唆しているように思えた。しかし、どうすればそんな矛盾した状態を両立できるのか?彼の混乱は、さらなる探求心へと変わっていった。

3. ゾルバ・ザ・ブッダ:統合された人間

1. 新しい人間のためのビジョン

Oshoは学生の探求心を感じ取り、彼の哲学の中心にあるビジョンを語り始めた。

「社会は君を分裂させてきた。『世俗的であるか、霊的であるかを選べ』『成功するか、悟りを開くかを選べ』と。これは史上最大の嘘だ。神は天国にいるのではなく、今、ここにいる。君の鼓動の中に、目の前の花の中に、どこか遠くではなく、君がそれを探すのをやめた瞬間に見つかるのだ。

私が提唱するのは、『ゾルバ・ザ・ブッダ』とブッダ、その両方を同時に生きるのだ。これこそが完全な人間、全体的な人間だ。君が本来なるべき姿なのだよ。」

2. 二つの道の比較

Oshoの教えと伝統的な精神性の違いを明確にするため、彼は二つの道を比較した。

|伝統的な道|Oshoの道 (ゾルバ・ザ・ブッダ)| |* 人生の放棄・否定 (Renunciation)|* 人生の祝福・肯定 (Celebration)| |* 世俗 対 精神 (Worldly vs. Spiritual)|* 世俗と精神の統合 (Integration of both)| |* 二者択一の思考 (Either/Or)|* 全体性と両立 (Wholeness & And)| |* 神は天国という外部にいる|* 神(真理)は今、ここにある|

3. セクションの結び

学生はそのビジョンの壮大さと美しさに感銘を受けた。分裂させられていた自己が一つになるという考えは、魂の渇望を癒すかのようだった。しかし、感動と同時に、最も根本的な疑問が湧き上がってきた。

「しかし、どうすればそのような存在になれるのでしょうか?」

4. 「いかにして?」から「ただ、ある」へ

1. 学生の最後の問い:「では、何をすれば良いのですか?」

学生は身を乗り出し、具体的な方法論を求めた。

「何をすればいいのですか?どんな瞑想を?どんな修行を?従うべきステップや教えがあれば、どうか教えてください。」

2. Oshoの教え:知識を捨て、権威に疑いを

Oshoは首を横に振った。その眼には、深い慈愛と、雷のような厳しさが宿っていた。

「私の仕事は、君に何か新しいものを与えることではない。むしろ、君から何かを取り去ることだ。君が背負い込んできた偽りの層、借り物の知識、社会からの条件付けを、一枚一枚剥ぎ取っていくことだ。私が物議を醸すのはそのためだ。私は君に新しい鎖を与えているのではない。君の古い鎖を破壊しているのだ。

だから、私を盲目的に従うべきグルにしてはならない。私を新たな権威にしてはならない。それでは、古い鎖を新しい鎖に取り替えるだけだ。私は君に羊であってほしくはない。君自身の真実で咆哮するライオンであってほしいのだ。

すべてを疑いなさい。特に、私を疑いなさい。 盲目的に従うことは知性の死だ。私は君に、反逆するほどに知的であってほしい。目覚めは安楽なものではない。それは君が築いてきた偽りの人生が燃え尽きる痛みだ。だがその痛みは、新しい意識が生まれるための産みの苦しみだ。その灰の中から、君は不死鳥のように蘇るだろう。」

3. 行動への呼びかけ:今、この瞬間

そして、Oshoは最も重要なメッセージを伝えた。

「目覚めは、未来のいつかに起こる出来事ではない。

今すぐ目覚めなさい。この瞬間が、あなたにあるすべてだ。

完璧な状況など、決してやってはこない。ここから、今から、この呼吸から、この意識から始めるのだ。扉は私が示そう。しかし、そこを通り抜けるのは君自身だ。月を私が指し示そう。しかし、それを見るのは君自身だ。」

5. 結論:対話の終わり、旅の始まり

1. 学生の気づきと感謝

対話が終わる頃、学生の心にあった抵抗は、静かな確信に変わっていた。彼は悟りを開いたわけではない。しかし、進むべき方向が、そしてその旅が自分自身の内側から始まるものであることを、はっきりと理解した。彼は深く頭を下げ、感謝の言葉を述べた。それはグルへの感謝ではなく、道を照らしてくれた友人への感謝だった。

2. Oshoの最後の言葉

Oshoは微笑み、最後の言葉をかけた。

「私は単なる鏡だ。君が自身の本当の顔を映し出すための。私は単なる目覚めの呼び声だ。

やがて君が本当に目覚めたとき、君は笑うだろう。宇宙的なジョークに腹を抱えて笑うだろう。幸福そのものであった自分が、生涯をかけて幸福を探し回っていたことに。そして、何者かになろうと必死だった自分が、すでに究極の神秘であり、究極の奇跡であったことに。その笑いの中で、君は自由になるだろう。

さあ、行きなさい。あなたの人生が、あなたを待っている。」

学生は立ち上がり、庭園を後にした。彼の足取りは、来た時よりもずっと軽く、しかし大地をしっかりと踏みしめる、確かなものになっていた。対話は終わったが、彼の本当の旅は、今、始まったばかりだった。

現代人の現状 : 「眠り」の状態

AI

OSHOのメッセージにおいて、現代人の現状である‌‌「眠り」の状態‌‌とは、単に目が閉じていることではなく、‌‌無意識のうちに機械的な人生を送っていること‌‌を指します,。提供されたソースに基づき、この「眠り」の正体とその構造について詳しく説明します。

1. 目を開けたまま「睡眠時随行症(歩き回る)」である状態

OSHOは、現代人が自分は目覚めていると信じ込んでいることこそが、最大の悲劇であると指摘しています。

  • ‌機械的な生存:‌‌ 仕事に行き、お金を稼ぎ、責任を果たすといった日常の営みは、意識的な選択ではなく、社会や親、文化によってプログラムされた‌‌「ロボット」のような動き‌‌に過ぎません。
  • ‌偽りの選択:‌‌ 職業、結婚、所有欲、さらには恐怖心さえも、自分自身の内側から湧き出たものではなく、他人の期待に応えるため、あるいは周囲に溶け込むための‌‌「条件付け(コンディショニング)」‌‌によって選ばされています,。例えば、画家になりたかったのに「将来がない」と言われてエンジニアになったり、自由でいたかったのに「落ち着くべきだ」と言われて結婚したりするのは、その典型です,。

2. 「仮面」と真の自己の窒息

現代人は社会から与えられた‌‌「仮面」‌‌を被り、他人が書いた脚本の役を演じています。

  • ‌内なる叫び:‌‌ 仮面の下では、真の自己(トゥルー・セルフ)が自由を求めて叫んでいますが、忙しさや気晴らし、そして立ち止まることへの恐怖のせいで、その声を聞くことができません。
  • ‌偽りの幸福:‌‌ 現代人の多くは、昇進や新車、休暇といった「理由のある幸せ」を追い求めていますが、OSHOによれば、それは本来の幸せではありません。‌‌理由のない喜び、ただ存在することへの至福‌‌を忘れてしまった状態こそが「眠り」の本質なのです。

3. 「眠り」を維持する社会の仕組み

社会は、人々が目覚めることを望んでいません。なぜなら、‌‌意識的になった自由な人間は、コントロールや搾取が不可能になるから‌‌です,。

  • ‌知識という名の混乱:‌‌ 教育や伝統を通じて与えられる「借り物の知識」が、人々のマインドを埋め尽くし、物事をありのままに見る力を奪っています。
  • ‌分断された人間像:‌‌ 社会は、人を「世俗的」か「精神的」かのどちらかに選ばせようとします。この分断が、人間を不完全な状態に留めています。OSHOはこれに対し、生のすべてを楽しみながらも目撃者(観照者)であり続ける‌‌「ゾルバ・ザ・ブッダ(心酔したブッダ)」‌‌という統合された人間像を提唱しています。

4. 目覚めへの障壁:痛みの回避

人々が「眠り」に留まる理由は、‌‌目覚めが「不快」で「苦痛」を伴うから‌‌です,。

  • 目覚めると、これまで築いてきた人生が嘘であったこと、追い求めてきた成功が無意味であったことに気づかざるを得ません。
  • 多くの人は、この「不快な真実」よりも「心地よい嘘」や「慣れ親しんだ不幸」を好むため、眠り続けることを選択します。しかし、OSHOはこの痛みこそが、偽りの自己が死に、真の自己が誕生するための‌‌「産みの苦しみ」‌‌であると説いています。

現代人の「眠り」の状態を理解するために、次のような例えを考えてみてください。

それは、‌‌豪華な舞台衣装を着て、見事な演技をしている俳優が、自分が役を演じていることさえ忘れ、舞台の上が自分の全人生だと思い込んでいる状態‌‌に似ています。観客(社会)の拍手をもらうために必死で演じ続けていますが、その厚いメイクの下では、本来の自分という人間が呼吸困難に陥っています。OSHOの言う「目覚め」とは、スポットライトを消し、衣装を脱ぎ捨てて、ただ一人の人間として劇場の外にある本物の夜空を仰ぎ見ることなのです。

幸福の誤解

AI

OSHOの「目覚めへの招待」という文脈において、現代人が抱く‌‌「幸福の誤解」‌‌は、彼が指摘する「眠り」の状態と深く結びついています。ソースに基づき、私たちがどのように幸福を履き違えているのか、その主要なポイントを詳述します。

1. 「理由のある幸せ」という誤解

多くの人は、昇進した、新しい車を買った、あるいは休暇に出かけたといった‌‌「外部の条件」が満たされた時に感じる感情を幸福だと誤解しています‌‌,。

  • OSHOによれば、これらは真の幸福ではありません。なぜなら、それらは外部の出来事に依存しており、条件がなくなれば消えてしまうからです。
  • 真の幸福とは、‌‌「何ひとつ理由がないのに、ただ生きているだけで幸せである」‌‌という、存在そのものから湧き出る状態を指します。

2. 幸福は「獲得するもの」であるという刷り込み

社会や教育、育てられる過程において、私たちは「幸福は努力して手に入れるものだ」と教え込まれます。

  • ‌「理由もなく幸せでいてはいけない、それは子供じみている」‌‌という社会的制約が、私たちの自然な喜びを奪ってきました。
  • その結果、現代人は「幸福を稼ぎ、値し、達成しなければならないもの」と考え、‌‌「無料で幸せになること」をやめてしまいました‌‌。

3. 「追い求めること」自体が幸福を遠ざける

幸福を追い求めれば求めるほど、それは手から逃げていくとOSHOは警告しています。

  • ‌幸福は「追い求める対象(Chase)」ではなく、私たちの「本質(What you are)」です‌‌,。
  • お金、成功、他人の承認などを必死に追いかけている間、人は「今、この瞬間」にある夕日や子供の笑顔、自分自身の命という、本当に大切なものを完全に見逃しています。
  • この「追いかける」行為を止め、ただ「在る(Just be)」状態になったとき、幸福は常にそこにあったことに気づかされます。

4. 幸福は「外側」にあるという錯覚

私たちは幸福を自分の外側に探し続けていますが、これはOSHOが「宇宙的なジョーク(Cosmic joke)」と呼ぶほどの皮肉な状況です。

  • ‌「自分自身が幸福そのものである」‌‌という事実に気づかずに、一生をかけて幸福を探し回るのが「眠っている人」の姿です。
  • 真の喜びは、何かを得ること(Getting something)からではなく、自分自身であること(Being something/yourself)から生まれます。この喜びは内側から来るため、外部の誰にも、何ものにも奪うことはできません。

この「幸福の誤解」を理解するために、次のような例えを考えてみてください。

それは、‌‌自分の鼻の上に眼鏡をかけているのに、「眼鏡がない、眼鏡がない」と家の中を必死に探し回っている人‌‌のようなものです。外を探せば探すほど、眼鏡は見つかりません。なぜなら、探している本人と眼鏡がすでに一体化しているからです。「探すこと」をやめて、ふと鏡を見た(自分に立ち返った)瞬間に、最初からそこにあったことに気づいて笑い出してしまう——これが、OSHOが説く「幸福への目覚め」のプロセスです。

真の瞑想と目覚め

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OSHOの教えにおいて、「真の瞑想」と「目覚め」は、何かを新しく獲得することではなく、‌‌私たちがすでに持っているが忘れてしまった「自然な状態」へと戻ること‌‌を指します。提供されたソースに基づき、その核心的な意味を説明します。

1. 「真の瞑想」とは何か

OSHOは、瞑想を「特定の時間だけ結跏趺坐で座ること」という限定的な枠組みから解放しています。

  • ‌あらゆる瞬間における「在る」こと:‌‌ 真の瞑想とは、1時間だけ静かに座って残りの時間を無意識に過ごすことではなく、‌‌すべての瞬間において現存(プレゼンス)し、気づき、目覚めていること‌‌です。
  • ‌「すること」から「在ること」への転換:‌‌ 私たちは常に、金銭、成功、愛、承認などを「追い求める(Doing)」ことに忙殺されていますが、瞑想とはこれらすべての動きを止め、‌‌ただ「在る(Being)」こと‌‌を指します。この「停止」の瞬間にこそ、人は真の生命力や意識を味わうことができます。
  • ‌観照者(証人)としての生:‌‌ 瞑想的な生き方とは、世俗的な責任を放棄して山にこもることではありません。仕事をし、家族を養い、人生を楽しみながらも、そのすべてを‌‌「執着せずに見守る観照者(ウィットネス)」‌‌であり続けることです。

2. 「目覚め(悟り)」の本質

目覚めとは、努力によって到達するゴールではなく、‌‌「自分がずっと眠っていた」という事実に気づくプロセス‌‌そのものです。

  • ‌痛みを伴うプロセス:‌‌ 目覚めることは、これまで自分が生きてきた人生が「嘘」であり、追い求めてきた成功が「無意味」であったと直視することから始まります。このプロセスは非常に苦痛ですが、それは‌‌偽りの自己が死に、真の自己が誕生するための「産みの苦しみ」‌‌として不可欠です。
  • ‌知識を捨て、無垢になること:‌‌ 目覚めを妨げているのは、他人から借りてきた「知識」や「信条」です。真の目覚め(悟り)は、学習や修行によって得られるものではなく、マインドを空っぽにし、‌‌子供のような「無知の無垢さ」‌‌に戻ったときに、直接的な洞察として現れます。
  • ‌「ゾルバ・ザ・ブッダ」の統合:‌‌ OSHOが提唱する目覚めた人間像は、現世的な楽しみを謳歌する「ゾルバ」の側面と、静寂と気づきの中にいる「ブッダ」の側面を同時に持っています。社会が作り出した「精神的か世俗的か」という二分法を壊し、‌‌生の全体性を生きること‌‌が真の目覚めです。

3. 目覚めへの唯一の道:自己の反逆

OSHOは、自分を「盲目的に信じるべき指導者(グル)」にしないよう強く警告しています。

  • ‌個人の知性と反逆:‌‌ 真の目覚めは、誰かの命令に従うこと(従順)からは生まれません。それは、既存の伝統、社会、教育、さらにはOSHO自身の言葉さえも‌‌疑い、自ら問い直す「反逆的な知性」‌‌を通じてのみ達成されます。
  • ‌宇宙的なジョーク:‌‌ 目覚めたとき、人は自分が一生をかけて外側に探し求めていた幸福や神が、実は‌‌最初から自分の中にあった‌‌という事実に気づき、笑い出すことになります。

真の瞑想と目覚めの関係を理解するために、次のような例えを考えてみてください。

それは、‌‌深い霧の中で「自分の家」を探して走り回っている旅人‌‌のようなものです。瞑想とは、走るのをやめて立ち止まり、霧が晴れるのを待つことです。そして目覚めとは、霧が晴れた瞬間に、‌‌自分がずっと「自分の家の玄関」に立っていたことに気づくこと‌‌です。外側に道はなく、最初からそこにいたという事実に気づくことが、OSHOの言う究極の「宇宙的なジョーク」なのです。

新しい生き方 : ゾルバ・ザ・ブッダ

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OSHOの「目覚めへの招待」という大きな文脈において、‌‌「ゾルバ・ザ・ブッダ(Zorba the Buddha)」‌‌という概念は、彼が提唱する‌‌「新しい人間」および「新しい生き方」の到達点‌‌を象徴しています。ソースに基づき、この生き方の本質について詳しく説明します。

1. 「ゾルバ」と「ブッダ」の統合

OSHOは、人間を「世俗的(ゾルバ)」か「精神的(ブッダ)」かのどちらかに選ばせようとする社会の在り方を「最大の嘘」であると断じています。

  • ‌ゾルバ(生を謳歌する者):‌‌ 人生を楽しみ、踊り、祝い、愛し、働き、創造する側面です。
  • ‌ブッダ(静寂の目撃者):‌‌ 観照(ウィットネス)し、気づきを保ち、中心に留まり、自分自身を知る側面です。
  • ‌統合された人間:‌‌ ゾルバかブッダのどちらか一方ではなく、‌‌「ゾルバであり、かつブッダである」という両面を同時に生きる‌‌ことこそが、本来あるべき「完全な人間(Whole person)」の姿です。

2. 「世界の中にありながら、世界の一部ではない」生き方

「目覚め」や「意識的であること」は、家族や仕事、責任を捨てることではありません。

  • ‌責任と自由の両立:‌‌ 伝統的な宗教は「人生から逃避すること」を教えましたが、OSHOは‌‌「世俗的な責任を果たしながらも、内側では自由であり続けること」‌‌を説いています。
  • ‌行為と観照:‌‌ 全力で働き、全力で愛しながらも、同時にそのすべてを‌‌執着せずに見守る「証人(目撃者)」‌‌でいなさいと教えています。これは、ヒマラヤの洞窟に隠れるのではなく、日常生活のただ中で瞑想的に生きるという「生の芸術」です。

3. 社会的条件付けからの反逆

「ゾルバ・ザ・ブッダ」として生きることは、社会が人間に押し付けてきた‌‌「分断」に対する革命‌‌です。

  • ‌二分法の打破:‌‌ 社会は「成功か悟りか」「享楽か神か」という選択を迫ることで、人間を不完全な状態に留めてきました。
  • ‌自らの真実に従う:‌‌ ゾルバ・ザ・ブッダは、宗教家や政治家の命令ではなく、‌‌自分自身の内なる光と真実に従って生きる‌‌ため、既存の体制(エスタブリッシュメント)にとってはコントロール不能な「危険な存在」となります。

4. 理由のない至福の体現

この新しい生き方において、幸福は「努力して獲得するもの」ではなく、‌‌「ただ存在すること(Being)」から溢れ出す自然な状態‌‌となります。

  • 成功や所有といった外部の理由に依存せず、‌‌「今、この瞬間」に生きているというだけで幸福を感じる‌‌のが、目覚めた人間の特徴です。
  • 外側に神や幸福を探し回るのをやめ、自分自身の中にすべてがあることに気づいたとき、人は「宇宙的なジョーク」に笑い出し、真に自由になります。

「ゾルバ・ザ・ブッダ」という生き方を理解するために、次のような例えを考えてみてください。

それは、‌‌「激しい嵐の中で、静かに燃え続けるランプの炎」‌‌のようなものです。外側ではゾルバのように人生の嵐(仕事、人間関係、感情の波)を全力で受け止め、激しく動き回っていますが、その中心にはブッダのような、決して揺らぐことのない静かな「気づきの炎」が灯っています。風を避けるために箱の中に閉じこもる(隠遁する)のではなく、‌‌風の中で激しく踊りながらも、その中心にある静寂を失わない状態‌‌——それがOSHOの説く新しい人間の在り方です。

条件付けからの解放

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OSHOの「目覚めへの招待」という文脈において、‌‌「条件付け(コンディショニング)からの解放」‌‌とは、社会や親、文化によって植え付けられた「偽りの自分」を脱ぎ捨て、本来の自分自身を取り戻すプロセスを指します。ソースに基づき、その詳細を説明します。

1. 条件付けの正体:ロボット化された生

OSHOによれば、私たちは生まれた瞬間から、社会や親、教育によって‌‌プログラムされた「ロボット」‌‌のように生きています。

  • ‌借り物の人生:‌‌ 私たちが選んだと思っている職業、結婚相手、抱いている欲望や恐怖さえも、実は自分の内側から出たものではなく、他人の期待や「周囲に溶け込みたい」という承認欲求から生じた、‌‌社会による条件付け‌‌の結果に過ぎません,。
  • ‌偽りの仮面:‌‌ 社会は私たちに「仮面」を与え、誰かが書いた脚本を演じさせています。この仮面の下で、真の自己(トゥルー・セルフ)は窒息し、自由を求めて叫んでいますが、忙しさや気晴らしのせいでその声は無視されています。

2. 解放のプロセス:「足し算」ではなく「引き算」

条件付けから自由になることは、何か新しい知識や能力を身につけることではありません。OSHOは、自身の仕事を‌‌「脱条件付け(アンコンディショニング)」‌‌や‌‌「デプログラミング」‌‌と呼んでいます。

  • ‌知識を捨てる:‌‌ 私たちのマインドは、伝統や教師から与えられた「借り物の知識」で埋め尽くされています。これらをすべて投げ捨て、‌‌「何も知らない状態(無垢さ)」‌‌に戻ることが、真理に触れるための条件です,。
  • ‌層を剥ぎ取る:‌‌ 悟りとは、特別な人間になることではなく、自分自身の本質を覆っている条件付け、信念、アイデンティティ、役割といった‌‌偽りの層を一枚ずつ剥ぎ取っていくこと‌‌です。

3. 解放への鍵:反逆と疑い

条件付けを打破するためには、社会が美徳とする「従順さ」ではなく、‌‌「知的な反逆」‌‌が必要だとOSHOは説いています。

  • ‌疑う勇気:‌‌ 伝統的な宗教は「信じろ」と言いますが、OSHOは‌‌「疑え」‌‌と言います。親、教師、社会、さらにはOSHO自身の言葉さえも疑い、自分自身の知性で問い直すことによってのみ、本当の明晰さが生まれます,。
  • ‌ライオンのように生きる:‌‌ 条件付けから解放された人は、羊のような追従者ではなく、‌‌自分自身の真実を咆哮するライオン‌‌になります。そのような人は社会のルールではなく、自分自身の内なる光に従って生きるため、既存の体制にとっては「危険な存在」となります,。

4. 解放に伴う痛み

条件付けから目覚めることは、決して心地よいだけのプロセスではありません。

  • ‌偽りの死:‌‌ 目覚めようとすると、これまで自分が信じてきた人生が「嘘」であったという、‌‌不快で残酷な真実‌‌に直面します,。
  • ‌産みの苦しみ:‌‌ この痛みは、偽りの自己(エゴ)が死に、真の自己が誕生するための‌‌「産みの苦しみ」‌‌です。この痛みから逃げずに焼き尽くされることで、人は不死鳥のように新しく生まれ変わることができます。

条件付けからの解放を理解するために、次のような例えを考えてみてください。

それは、‌‌玉ねぎの皮を剥く作業‌‌に似ています。社会はあなたに「立派な皮であれ」「美しい色の皮をまとえ」と教え、あなたはいつの間にか皮こそが自分自身だと思い込んでしまいました。しかし、皮を剥いていっても、その中心には「これ」という実体(物としての自己)は見つかりません。最後に残るのは「空(くう)」ですが、その‌‌空っぽの状態こそが、何にも縛られていない自由なあなたの本質‌‌なのです。皮をすべて脱ぎ捨てたとき、あなたは初めて自分自身の本当の香りと出会うことができます。

革命的メッセージ

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OSHOの「目覚めへの招待」という大きな文脈において、彼のメッセージが「革命的」であるとされる理由は、それが外側の世界を変える政治的な運動ではなく、‌‌個人の内側の世界を根本から変容させる「内なる革命」‌‌を提唱しているからです。

ソースに基づき、その革命的なメッセージの核となる要素を説明します。

1. 既存のあらゆる権威への反逆

OSHOの革命は、社会の基盤となっている伝統的な権威に対する徹底的な挑戦です。

  • ‌「慰め」の拒絶:‌‌ 多くの宗教家や政治家が「すべてはうまくいっている」という嘘や慰めを与えるのに対し、OSHOは‌‌「剥き出しの、不快な真実」‌‌を突きつけ、人々を眠りから「叩き起こす」ことを目的としています。
  • ‌支配者にとっての危険性:‌‌ 意識的になり、自らの真実に従って生きる人は、コントロールや操作、搾取が不可能になります。そのため、OSHOは自分自身を、既存の体制(エスタブリッシュメント)にとって‌‌「危険な存在」‌‌であると定義しています。
  • ‌羊ではなくライオンへ:‌‌ 革命的な人間とは、盲目的に従う「羊」のような存在ではなく、自らの真実を咆哮し、独自の光に従って生きる‌‌「ライオン」‌‌のような存在です。

2. 「脱条件付け」という破壊的プロセス

この革命は、何か新しい知識を学ぶこと(学習)ではなく、これまでに植え付けられたものをすべて捨てること(脱学習)にあります。

  • ‌マインドのデプログラミング:‌‌ 親、教師、文化によってプログラムされた「ロボット」としての生を終わらせるために、OSHOは‌‌「アンコンディショニング(脱条件付け)」‌‌と‌‌「デプログラミング」‌‌を自身の仕事としています。
  • ‌知識から無垢へ:‌‌ 借り物の知識や信念をすべて捨て去り、‌‌「何も知らない子供のような無垢さ」‌‌に戻ることこそが、最大の革命的な行為です。

3. 「ゾルバ・ザ・ブッダ」:二分法の打破

伝統的な宗教が数世紀にわたって人々に強いてきた「世俗か精神か」という二者択一を、OSHOは「最大の嘘」として破壊します。

  • ‌完全な人間:‌‌ 人生を楽しみ、踊り、愛する「ゾルバ」の側面と、静寂の中で見守る「ブッダ」の側面を同時に生きる‌‌「ゾルバ・ザ・ブッダ」‌‌という統合された人間像を提唱しています。
  • ‌世界の中にあり、世界のものではない:‌‌ 責任を果たし、働きながらも、内側では何にも執着せず自由であり続けるという、全く新しい生き方を提示しています。

4. 信念(Belief)ではなく疑い(Doubt)

OSHOのメッセージが最も革命的なのは、‌‌自分自身(OSHO)さえも盲目的に信じるな‌‌と説いている点です。

  • ‌知的な反逆:‌‌ 「信じろ」という宗教的伝統に対し、OSHOは‌‌「疑え、反逆しろ」‌‌と教えます。
  • ‌権威の否定:‌‌ 自身を崇拝したり、自分の周りに新しい宗教を作ったりすることを禁じ、自らの知性を使って質問し、実験し、自分自身の道を切り拓くことを求めています。

OSHOの革命的メッセージを理解するために、次のような例えを考えてみてください。

それは、‌‌「牢獄の中にいる囚人たちに、より快適なベッドや食事を与える(改革)」のではなく、「壁を壊して外に広がる無限の空を見せ、自分たちが囚人であったという事実に気づかせる(革命)」‌‌ようなものです。彼は新しい鎖を与えるのではなく、古い鎖を壊そうとしています。その過程は、慣れ親しんだ牢獄(偽りの自己)を失うという痛みを伴いますが、その先には「自分自身が最初から自由であった」という、宇宙的なジョークのような驚くべき真実が待っています。

結論 : 今ここでの目覚め

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OSHOの「目覚めへの招待」というメッセージの締めくくりとして、ソースが語る‌‌「今ここでの目覚め」‌‌とは、未来のいつかではなく、まさにこの瞬間において「偽りの自分」を捨て、本来の生を生き始めるという断固とした決意を指します。

ソースに基づき、その結論となる核心的なポイントを詳しく説明します。

1. 「今ここ」という唯一の現実

OSHOは、目覚めを将来の目標として先延ばしにすることを強く戒めています。

  • ‌瞬間の重要性:‌‌ 「この瞬間が、あなたにあるすべてである」とし、今この瞬間こそが人生であり、永遠であると述べています。
  • ‌延期の終わり:‌‌ 「完璧な条件」が整うのを待ってはいけません。完璧な条件など決して訪れないからです。目覚めは、今この呼吸、今この気づき、今この現存(プレゼンス)から始まるべきものです。

2. 「すでにそうである」ことへの気づき

目覚めとは、何か遠くにあるものを手に入れることではなく、‌‌「自分が最初からそうであったもの」を思い出すこと‌‌に他なりません。

  • ‌本来の状態:‌‌ 悟りとは特別な達成ではなく、誰もが本来持っている「自然な状態」です。あなたはすでに自由であり、すでに全体であり、すでに悟っていますが、単にそれを忘れているだけなのです。
  • ‌宇宙的なジョーク:‌‌ 目覚めたとき、人は笑い出すことになります。なぜなら、自分自身が「幸福」そのものであったのに、一生をかけて外側に幸福を探し回っていたという滑稽な事実に気づくからです。

3. 個人の責任と選択

目覚めは、他人が代わりにやってくれることではなく、自分自身の勇気ある決断にかかっています。

  • ‌自ら歩く:‌‌ OSHOは「扉を示すことはできるが、そこを通るのはあなた自身だ」と述べています。誰もあなたを強制的に自由にすることはできず、その選択は常にあなた自身の手に委ねられています。
  • ‌権威の否定:‌‌ 指導者(グル)や宗教、伝統に頼ることは、知性の死を意味します。自分の外側に救いを求めるのをやめ、自分自身の内なる光に従って、ライオンのように独り立つことが求められます。

4. 結論:機械的な生から人間的な生へ

OSHOの最終的な呼びかけは、ロボットのようにプログラムされた生き方をやめ、‌‌「人間として生きる」‌‌ことへの招待です。

  • ‌真の生の祝福:‌‌ 社会から与えられた「仮面」を脱ぎ捨て、偽りの自己を焼き尽くしたとき、あなたは不死鳥のように新しく生まれ変わります。
  • ‌自由のための自由:‌‌ 何か「から」の自由ではなく、ただ「在る」ための自由、生き、愛し、祝うための自由を手にすることが、目覚めの真の目的です。

「今ここでの目覚め」を理解するために、次のような例えを考えてみてください。

それは、‌‌「太陽が昇っているのに、固く目を閉じて『暗闇だ、光はどこにあるのだ』と嘆いている人」‌‌のようなものです。目覚めとは、光を探しにどこかへ出かけることではありません。ただ、‌‌今この瞬間に「目を開ける」こと‌‌、それだけです。目を開けた瞬間、探し求めていた光が、最初から自分を包み込んでいたことに気づくのです。OSHOは、その「目を開けるためのアラーム(目覚まし時計)」の役割を果たそうとしているのです。

情報源

動画(21:08)

Why OSHO Was BANNED for Saying This (You Need to Hear It)

https://www.youtube.com/watch?v=HPr9jKG5_ws

12,900 view 2025/11/24

(2025-12-28)