Rajneesh(OSHO) の「中身が空っぽな教え」
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前置き+コメント
この動画で初めて Rajneesh の生の喋りを聞いたが、インド人にしては珍しく、とても聞き取り易い英語で喋っている。
喋っている内容から陳腐なタワゴトを除くと、内実は「空っぽ」。何も無い。内実が何も無いから、聞き手は(それまでに読んだり聞いてきた)精神世界のタワゴトの解釈をそこに勝手にぶち込んで「深い真理」を語っていると錯覚する。
本人が悟ったと確信して(or 確信した振りを装って)、どんなタワゴトでも、馬鹿げた内容でも、強烈な印象を与えるように言い切った者が勝つ。断言する内容が馬鹿げているほど、常識から逸脱しているほど、深い逆説的真理であるかのように受け取られるという倒錯が成立するのが、宗教/精神世界 業界の習わし。
だが、たぶん Rajneesh の悟りは偽(=捏造)ではない。つまり正真正銘の悟りだと判断する。本来、悟りに本物も偽物もない。全ての悟りは(宗教的伝統における悟りという規範に沿った(*1))意識障害の産物ゆえ、全ての悟りは真理でも有益でもない。有害かつ無益。Rajneesh だけが「堕ちたグル」なのではない。全ての悟ったグルは例外なく堕ちている。
真理でないものを真理だと主張している段階で、有害かつ無益。
真理は最大の虚構ゆえ、もともと実在しない。その実在しない虚構の「真理」を超越的な認知力(=智慧)で体得した…そう主張するのが有象無象の「悟り」の正体。当然、悟りなるものは、まるごとタワゴトに堕する。そして、そのタワゴトを皆が崇める。宗教学者はそのタワゴトに額づき、その背後の教理を宗教学的に緻密に分析する。
倒錯の極み。
(*1)
「宗教的伝統の規範に沿わない」悟りも存在するが、それは「悪霊に憑かれた」とか、「発狂した」と見なされる。
つまり,意識障害という点では現象は同じだが、「宗教的伝統の規範」に沿っているか、沿っていないかというフィルターで選り分けて、
- 悟った
- 悪霊に取り憑かれた、発狂した
と見なされてきた。
要旨
このソースは、インドの精神的指導者オショウによる、人間の無意識な生き方への痛烈な警告と目覚めへの誘いを記録したものです。
彼は、人々が社会や教育に洗脳された「ロボット」のような状態で、他人の期待に応えるだけの偽りの人生を送っていると指摘します。真の幸福は外的な成功ではなく、ありのままの自分に戻ることで得られる自然な状態であり、瞑想とは日常生活のあらゆる瞬間で目覚めていることだと説いています。
オショウは、伝統的な宗教や道徳を否定し、世俗的な喜びと深い静寂を両立させる「ゾルバ・ザ・ブッダ」という新しい人間像を提唱しています。最終的に、読者に対して既存の価値観を疑い、自分自身の内なる真実と自由を今この瞬間に取り戻すよう強く促す内容となっています。
目次
- 前置き+コメント
- 要旨
- OSHOの教えに関するブリーフィング:意識的な覚醒への呼びかけ
- 目覚めへの対話:Oshoと懐疑的な学生
- 現代人の現状 : 「眠り」の状態
- 幸福の誤解
- 真の瞑想と目覚め
- 新しい生き方 : ゾルバ・ザ・ブッダ
- 条件付けからの解放
- 革命的メッセージ
- 結論 : 今ここでの目覚め
- 情報源
OSHOの教えに関するブリーフィング:意識的な覚醒への呼びかけ
エグゼクティブ・サマリー
本ブリーフィングは、OSHOの講話から抽出された核心的なテーマと思想を統合したものである。中心的な主張は、現代人の大多数が、社会、親、文化によってプログラムされた「眠り」という無意識の状態で人生を送っており、自らの真の人生を生きていないという点にある。OSHOの目的は、慰めを与えることではなく、この「眠り」から人々を揺さぶり起こすことにある。
覚醒への道は、快適なものではなく、自らの人生が嘘であったという痛みを伴う認識を必要とする。しかし、この痛みは新たな意識の誕生に不可欠なものとされる。OSHOは、伝統的な宗教が説くような世俗の放棄を否定し、「ゾルバ・ザ・ブッダ」という概念を提唱する。これは、人生を全身で享受する「ゾルバ」と、内なる観察者である「ブッダ」を統合した、完全な人間像である。
最終的に、OSHOは盲目的な信仰や追従を断固として拒絶する。彼は、信じることよりも疑うこと、服従するよりも反逆することを奨励し、聞き手自身が自らの真実を見出すよう促す。覚醒は、外部から与えられるものではなく、今この瞬間に、個々人が自らの内側で決断し、行動することによってのみ達成される個人の責任であると結論付けている。
1. 人類の現状:「眠り」という無意識状態
OSHOの思想の根幹をなすのは、ほとんどの人間が「眠っている」という認識である。これは比喩的な表現であり、物理的に目が覚めている状態であっても、精神的には無意識の自動人形(ロボット)として生きていることを指す。
- プログラムされた存在: 人々の選択(職業、結婚相手、欲望、恐怖)は、真に自らの意志によるものではなく、社会、親、文化からの条件付け、承認欲求、恐怖心によって決定されている。
- 偽りの自己: 社会から与えられた役割(マスク)を演じることに終始し、その仮面の下で真の自己は窒息し、叫び声を上げている。しかし、人々はその叫びを聞くことなく、多忙さや恐れから耳を塞いでいる。
- 「眠り」の自己認識: 眠っている人間は、常に自分は目覚めていると信じ込んでいる。自分が眠っていたという事実は、実際に目覚めた時に初めて認識される。この無意識状態こそが、人類最大の悲劇であるとOSHOは断言する。
引用: 「あなたは眠っている。そして、あなたはずっと眠り続けてきたのだ。あなたは、目が開いているから自分は起きていると思っている。仕事に行き、金を稼ぎ、責任を果たしているから 意識があると思っている。しかし、言っておくが、あなたは夢遊病者なのだ。」
2. 幸福の幻想と本来の喜び
現代人が追い求める幸福は、真の幸福ではないとOSHOは指摘する。それは外部の条件に依存した、一時的な感情に過ぎない。
- 条件付きの幸福: 昇進、新車、休暇など、何かを得ることで生じる幸福は、本物ではない。
- 本来の喜び(Joy): 人間が生まれながらに持つ権利は、理由なき「喜び」である。それは、ただ生きていること、存在していること自体から湧き起こる幸福感であり、子供が持つ自然な状態に近い。
- 失われた自然な状態: 社会は、「理由なく幸せでいてはいけない」「幸福は稼ぎ、達成し、値するものでなければならない」と教え込むことで、この本来の喜びを組織的に破壊した。
- 「追いかける」ことの罠: 人々は幸福を追いかけるようになり、その結果、幸福はますます遠ざかっていく。金、成功、愛、承認を追い求め走り続ける中で、夕日や子供の笑顔といった、今この瞬間の美しさ、すなわち人生そのものを見失っている。
引用: 「幸福とは、追いかけられるものではない。幸福とは、あなた自身なのだ。追いかけるのをやめ、走るのをやめ、ただ『ある』とき、幸福はそこにある。」
3. 覚醒への道:停止と瞑想
覚醒への第一歩は、追いかけることを「やめる(Stop)」ことである。この「停止」こそが、OSHOの説く瞑想の本質である。
- 瞑想としての「停止」: 瞑想とは、特定のポーズで座ることではなく、あらゆる瞬間に「存在する(being present)」こと、意識的であること、目覚めていることである。
- 覚醒の痛み: 覚醒は快適なプロセスではない。これまで生きてきた人生が嘘であったこと、追い求めてきた成功が無意味であったこと、愛していると思っていた人々が自分を利用していただけだったことなど、厳しい真実を直視させられる。この痛みは、偽りの自己が死に、真の自己が生まれるための「産みの苦しみ」であり、避けるべきではない。
- 責任の放棄ではない: 覚醒とは、責任や家族、仕事を放棄して世捨て人になることではない。これは伝統的な宗教が広めた嘘であるとOSHOは批判する。
4. 「ゾルバ・ザ・ブッダ」:世俗と精神の統合
OSHOは、二元論的な生き方を否定し、世俗的な生と精神的な生を統合した新しい人間像「ゾルバ・ザ・ブッダ」を提唱する。
- 世俗にありて世俗にあらず: OSHOが教える生き方の真髄は、「世界の中にいながら、世界のものではない」状態である。責任を果たしながらも自由であ り、働きながらも瞑想的であり、愛しながらも執着しない生き方を指す。
- ゾルバとブッダの同時存在:
- ゾルバ: 人生を楽しみ、踊り、愛し、創造する、世俗的なエネルギーの象徴。
- ブッダ: 観察し、証人となり、意識的であり続け、自己を知る、精神的な覚醒の象徴。
- 完全な人間: 「ゾルバかブッダか」ではなく、「ゾルバであり、かつブッダである」こと。この両極の同時存在こそが、分裂させられていない「全体的な人間(the whole person)」の姿である。神は天国にいるのではなく、今この瞬間、あらゆる場所に偏在している。
引用: 「ゾルバであれ…しかしまたブッダであれ…ゾルバかブッダかではなく、ゾルバとブッダ、その両方を同時に。これこそが完全な人間だ。」
5. 知からの解放と純粋な「見ること」
覚醒を妨げる最大の要因は、他者から与えられた「借り物の知識」であるとOSHOは説く。
- 知識の雑然さ: 人間の心は、信念、イデオロギー、哲学など、自分のものではない借り物の知識で満たされている。これが混乱の原因である。
- 無垢への回帰: これらの知識をすべて捨て去り、何も知らず、何も信じない、子供のような無垢な状態になることが求められる。好奇心に満ち、真実に対して開かれた状態である。
- 悟りとは直接的な「見ること」: 悟り(Enlightenment)は、学習や修行によって達成されるものではなく、心を空にしたときに突如として明らかになる、純粋で直接的な「見ること」によって得られる。
- 本来の自然な状態: 悟りは、獲得すべきものではなく、人間が常にそうであったにもかかわらず忘れてしまっている「本来の状態」である。OSHOの仕事は、何か新しいものを与えることではなく、偽りの層を剥ぎ取り、本来の自己を明らかにすることにある。
6. 意識的な個人の危険性と権威への反逆
OSHOは、覚醒した個人が既存の権力構造にとって「危険」な存在になると主張する。
- 支配不能な個人: 無垢で、自由で、意識的な人間は、支配、操作、搾取することができない。彼らは社会のルールではなく、自らの真実に従って生きる。これが、宗教家や政治家がOSHOを恐れ、攻撃する理由である。
- グル(導師)の否定: OSHOは、自身を権威とし、宗教を創り、崇拝することを明確に禁じる。彼の教えを利用し、実験することは奨励するが、盲目的に従うことは知性の死であると警告する。
- 疑いと反逆の奨励:
- 宗教が「信じよ」と言うのに対し、OSHOは「疑え」と言う。
- 伝統的な教師が「従え」と言うのに対し、OSHOは「反逆せよ」と言う。
- 古い経典が「従え」と言うのに対し、OSHOは「汝自身の道を見出せ」と言う。
引用: 「宗教家は『信 じよ』と言う。私は『疑え』と言う。伝統的な教師は『従え』と言う。私は『反逆せよ』と言う。」
7. 行動への呼びかけ:今、この瞬間を生きる
OSHOのメッセージは、理論ではなく、即時の行動を促す「目覚めの呼び声」である。
- 個人の選択と責任: 覚醒は、他者によってもたらされるものではなく、自分自身で決断し、実行するしかない。OSHOは「扉を示すことはできるが、通り抜けるのはあなた自身だ」と語る。
- 「今、ここ」の重要性: 完璧な状況を待っていてはならない。覚醒は「今、この瞬間」に始めるべきものである。なぜなら、この瞬間こそが人生であり、永遠だからだ。
- 覚醒の報酬: 勇気を持って目覚めるならば、想像を絶する喜び、自由、平和を発見する。それは外部の何かに依存しない、自分自身の本質から来る喜びである。
- 宇宙的なジョーク: 目覚めたとき、人は笑うだろう。幸福そのものであったにもかかわらず幸福を探し回っていたこと、生まれただけで成功していたにもかかわらず成功を追いかけていたこと、究極の神秘であったにもかかわらず「何者か」になろうとしていたことの滑稽さに気づき、その笑いの中で真に自由になる。