なぜ Scott Adams は最期にキリスト教信者となったのか?
前置き
Scott Adams の死去については本日の別記事、
追悼、Scott Adams(享年 68) (2026-01-26)
で取り上げたが、その中で言及があるように彼は 亡くなる直前にキリスト教へ改宗した 。
Scott Adams はキリスト教を含めた宗教を批判し、長らく無神論者を公言してきた。それまで無神論者を貫いてきたその彼が、なぜ死の直前になってキリスト教信者に転向したのか?
以下、その理由を推測する。
目次
Scott の無神論者からの転向の背景
友人・知人らの率直な称賛からもわかる通り、Scott Adams は善良な人々との連帯意識が強かった。その連帯意識が Youtube での政治的な発言となり、また
コミュニティの構築: 「同時一口(Simultaneous Sip)」という毎朝の儀式は、パンデミック中に多くの人々に連帯感と安らぎを与えた。
として、毎日の Youtube での発信に繋がった。彼の毎日の Youtube での発信は「混迷した世の中の複雑な動きを老賢人が解きほぐして解説している」といった趣があった。
彼は常々、
- キリスト教は信じないが、キリスト教信者の方が無神論者よりも人間として信用でき、隣人として選ぶなら無神論者ではなく、キリスト教信者だ
と語っていた。支配機構としてのキリスト教会という組織は歴史的にも邪悪な面を多く抱え腐敗した存在だったが、一般のキリスト教信者は善良であり、良き隣人と見なせる。
無神論者には善良になる必然性が欠如
Scott Adams が無神論を捨て、最期をキリスト教信者として生きる決断をした最大の理由は
- 無神論者には善良になる必然性が欠如している
- 対して、キリスト教信者は善良である必然性がある
という鮮やかな対比があるからだと思える。
Scott Adams が無神論を捨てた理由
極論すると、
- 無神論には「(善良な人間としての)魂」が欠如している
これが、誠実で善良な人間であった Scott Adams が無神論を捨てた根源の理由だろう。
つまり、Scott Adams は
- 神が存在するか? キリスト教の教えは真実か?
といった「非本質的で些細な問題」よりも、
- たとえ神が不在であろうと、キリスト教が虚偽であろうと、神的存在を希求し善良な魂であることに最大の価値がある
という実践的判断を下した。言い換えると、それが超越願望(=虚構)であることを十分に承知した上で、その実現(超越の地上化)への道を死の直前に歩み始めた。だから「これから始まるのだ」という最期のメッセージになった。
Scott がジョエル・ポロック氏に遺した最後の言葉で、このスピーチを締めくくりたいと思います。彼の人生は終わりではなく、私たち一人ひとりの中に、新たな物語の始まりを刻んでくれました。
「そして、始まるのだ。友よ、幸運を。(And so it begins. Good luck my friend.)」
ref : 最期の言葉
(逆説的に)Scott Adams は超越を達成した
そして…。驚くべきことに、Scott Adams は自身の死によってそれを逆説的にではあるが「実際に達成」させた。実際、彼のこの方法以外には原理的に不可能。
彼は既にそれが
- 超越願望(=虚構)であることを十分に承知していた
がゆえにあらためて疑念が生まれることはない。
他の無数の宗教信者、聖職者はどんなに信仰心が篤かろうが、一抹の疑念は避けられなない。それ故に、彼らに超越は達成できない(*1)。僅かでも超越(=完全な理念=虚構)に不純物が混じれば、それは不完全となり超越ではなくなる。
(*1)
むろん例外はある。
長期にわたる極端な修行で意識障害を引き起こすことで疑念が一時的に消え、超越を幻覚の中で達成することは宗教史の中で幾度も起こった。それが 大悟/解脱 と呼ばれてきた。当然それは現実の超越ではない、残念ながら。
超越は、それが超越ではない(=虚構に過ぎない)という認識の上で(人間の情理を逆手に取って)逆説的に達成するしかない。Scott Adams はそれをやってのけた。
蛇足
数十年後ならともかく、今の私の視界に死は入ってこない。抽象的/概念的 な意味での 死は思い浮かべることができるが、実感としての死はほぼ無縁。
老賢人である Scott Adams が否応なく間際に迫った死を見据えて、それまでの無神論を捨てて、キリスト教信者に転向した深い実感的理由は、私のような若輩者には窺い知ることはできないのかもしれない。
(2026-01-26)