1933, イタリアに墜落した UFO 事件の追記
前置き
数日前の過去記事、
Roberto Pinotti 講演 : 1933, イタリアに墜落した UFO を政府が極秘に研究 ⇒ この謎を解く (2026-01-10)
で
この 1993年にイタリアに墜落した UFO の正体は、当時のドイツ(ヴァイマル共和国)が行った初期の開発段階のロケットがイタリアに墜落したものだと思える。
具体的に言えば以下の A1 や A2 ロケット が該当。 1933 に A1 ロケットを開発し、1934年に A2 ロケットの発射実験に成功とあるから、本件の 1933年に時期もキッチリ符合するし、形状も一致する。
と述べたが、この A1 や A2 という初期段階のロケットの最大射程距離(飛行可能距離)が記録と合致するかどうかが気になったので fact check した。
結論
fact check の結果、A1 や A2 では射程距離が不足することがわかった。
したがって、この墜落事件の UFO(=ロケット)は
-
クンメルスドルフ陸軍兵器実験場 (Heeresversuchsanstalt Kummersdorf) から発射されたものではない
-
ドイツが密かにオーストリアに A1/A2 を持ち込み、イタリア領土内部に向けて発射試験を行ったもの
だと判断するのが妥当だと思える。
以上は、1933年という記録が間違っていないという前提の判断だが、当時のイタリアの記録が混乱していた(or 意図的に撹乱させていた)可能性もありうる。
つまり、ドイツ側の A1/A2 ロケットの開発に関する情報がイタリア側に漏れていて、その情報の記録を後の事件と混乱したり、あるいはイタリアの情報機関が意図的に公開記録情報を撹乱させた可能性(*1)もありうる。US の CIA が極秘開発機の目撃報告事例を UFO の仕業にしていたことは有名(CIA 自身が自慢げに告白)。同じことをムッソリーニ政権がしていても不思議ではない。
(*1)
露骨に言えば、
- 当時、イタリアはドイツの開発していた A1/A2 ロケットの情報を探知していた。
- 当時、ドイツと緊張関係にあったイタリアはその情報に危機感を抱いた。
- そこで、「イタリアでも同様のロケット開発を極秘で進め、発射実験に成功させた」という事を匂わせた「ドイツ向けの偽情報」を捏造した。
- その捏造文書の記録を Roberto Pinotti らが後年になって発見して、大騒ぎした。
…という筋書き。これが最も蓋然性が高い。つまり、1933年にイタリアに墜落したロケットは実在しなかった。勿論 UFO の墜落もなかった。焦ったイタリアがドイツ向けに仕掛けた情報工作だった。
目次
AI(Gemini) による fact check
Me:
Wikipedia に以下のような記載があります。この クンメルスドルフの研究所 があった場所(地名)を教えて。
A2(Aggregat 2)は、A1の発展型であり、フォン・ブラウンによってヴァルター・ドルンベルガーが主導するクンメルスドルフの研究所で1934年に開発された。全長1.6m、胴体直径30.5cm、空虚重量は72キログラム (159 lb)で離陸重量は107キログラム (236 lb)だった。燃料と酸化剤はA1と同じくアルコールと液体酸素を用いて推力は3 kNでA1に似ていた。しかしながら、A1とは対照的に安定用ジャイロスコープはロケット中心部のアルコールタンクと酸素タンクの間に配置され、安定度が増している。
ご質問ありがとうございます。
Wikipediaの記載にある「クンメルスドルフの研究所」があった場所(地名)は、ドイツのブランデンブルク州テルトウ=フレーミング郡にあるアム・メルリッヒゼー (Am Mellensee) という自治体内の クンメルスドルフ=グート (Kummersdorf-Gut) という地区です。
詳細な位置関係と歴史的背景をまとめました。
所在地と詳細
- 現在の地名: ドイツ、ブランデンブルク州、クンメルスドルフ=グート (Kummersdorf-Gut)
- 場所の性格: ベルリンの南約25km〜30kmに位置しています。
- 歴史的名称: クンメルスドルフ陸軍兵器実験場 (Heeresversuchsanstalt Kummersdorf)
研究所の背景
この場所は、もともとプロイセン軍の砲兵射撃試験場として使われていました。1930年代に入り、ヴァルター・ドルンベルガー率いる陸軍兵器局のロケット開発部門がここに拠点を置き、ヴェルナー・フォン・ブラウンらが初期のA1やA2ロケットの開発・試験を行いました。
しかし、ロケットの規模が大きくなるにつれ(後のV2ロケットなど)、人口密集地に近いクンメルスドルフでは手狭で危険になったため、開発拠点は後にバルト海沿岸のペーネミュンデへと移ることになります。
現在は歴史保存地区となっており、当時の試験施設の遺構などを見ることができます。
この場所で行われたA1やA2の開発の経緯、あるいは後のペーネミュンデへの移転についてさらに詳しくお調べしますか?
Me: その クンメルスドルフ=グート (Kummersdorf-Gut) から、イタリアの Milano の西 20km ほどに位置する Magenta までの直線距離はどの程度ですか?
ドイツのクンメルスドルフ=グートから、イタリアのマジェンタ(Magenta)までの直線距離は、約 825 km です。
正確な座標を用いた計算の詳細は以下の通りです。
1. 両地点の座標
- クンメルスドルフ=グート(ドイツ)
- 北緯 $52^\circ 05' 50''$ / 東経 $13^\circ 21' 48''$ 付近
- マジェンタ(イタリア・ロンバルディア州)
- 北緯 $45^\circ 27' 37''$ / 東経 $08^\circ 52' 36''$ 付近
2. 直線距離(大圏距離)
地球の曲率を考慮した直線距離を算出すると、以下のようになります。
| 項目 | 距離 |
|---|---|
| 直線距離(km) | 約 825.5 km |
| 直線距離(マイル) | 約 512.9 miles |
地理的な位置関係のイメージ
この距離(約 825 km)は、日本国内で例えると 「東京駅から福岡県の北九州市(小倉駅)付近まで」 の直線距離とほぼ同じです。
アルプス山脈を越えて南北に移動する形になりますが、ベルリン近郊から北イタリアまでは、ヨーロッパのスケール感で見れば「隣国の主要都市圏へ移動する」ような、比較的近い距離感と言えます。
その他に、これら二つの地点に関連する歴史的なエピソードや、詳細なルートなどについてお知りになりたいことはありますか?
Me: 先の A2(Aggregat2) ロケットの最大射程距離はどの程度でしたか?
A2(Aggregat 2)ロケットは、実戦用ではなくあくまで技術実証のための試作機であったため、その射程は非常に短いものでした。
1934年12月に北海のボルクム島から打ち上げられた際(機体には「マックス」と「モーリッツ」という愛称がつけられていました)の記録によると、最大射程距離は約 800 m です。
A2ロケットの飛行性能
A2ロケットの主な目的は、ジャイロスコープによる姿勢制御が実際に機能するかを確認することにありました。飛行の詳細は以下の通りです。
- 到達高度(最高高度): 約 2.2 km(2,200 m)
- 射程距離(着弾地点): 発射地点から 約 800 m の地点
- エンジン燃焼時間: 約 16 秒
後続モデルとの比較
ご質問にある「クンメルスドルフからマジェンタまでの距離(約 825 km)」と比較すると、初期のA2がいかに小さな一歩だったかがわかります 。後の実用型であるA4(V2ロケット)になって初めて、ようやく実戦的な射程(約 320 km)を手に入れることになります。
| ロケット名 | 開発年 | 全長 | 最大射程 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| A2 | 1934年 | 1.6 m | 約 800 m | 初の姿勢制御成功 |
| A4 (V2) | 1942年 | 14.0 m | 約 320 km | 世界初の弾道ミサイル |
クンメルスドルフでの実験からわずか数年で、高度な弾道飛行技術へと進化していったことになります。このA2の技術的な特徴(ジャイロ配置など)について、さらに深掘りしたい部分はありますか?
Me: この A1 や A2 の後に V1 や V2 ロケットが開発されたのだと推測しますが、射程距離が 900km を超えたのは何年ごろですか? そのロケットは V1 ですか?
実は、V1やV2が実戦配備されていた第二次世界大戦中のドイツにおいて、単弾頭のロケットが射程900kmを超えることはありませんでした。
A1やA2の後に開発された主要なロケットの射程は以下の通りです。
1. V1飛行爆弾(Fi 103)
- 種別: パルスジェット推進の無人航空機(巡航ミサイルに近い)
- 最大射程: 約 250 〜 280 km
- 特徴: ロケットではなく「空飛ぶ爆弾」と呼ばれ、低速で飛行しました。
2. V2ロケット(A4)
- 種別: 世界初の液体燃料弾道ミサイル
- 最大射程: 約 320 km
- 実戦配備: 1944年
- 特徴: A2の直接的な後継機であり、技術的には飛躍しましたが、射程はロンドンやアントワープを狙うための300km強に留まりました。
射程 900km を超えたのはいつか?
ドイツが開発していた計画機の中には、射程900kmを超える構想がありました。
A4b(V2の改良型)
V2ロケットに「翼」を付け、大気圏上層を滑空させることで射程を伸ばそうとしたモデルです。
- 計画射程: 約 600 〜 800 km
- 試験時期: 1945年初頭に試験が行われましたが、実用化前に終戦を迎えました。
A9/A10(アメリカ・ロケット)
さらに巨大なブースター(A10)の上にA9(翼付きV2の発展型)を載せる2段式ロケットの構想で、大西洋を横断してアメリカ東海岸を攻撃することを目指していました。
- 計画射程: 約 5,000 km 以上
- 状況: 設計段階で終戦となり、実機は完成しませんでした。
結論
実戦に投入された兵器で、射程 が900kmを明確に超えるようになるのは、戦後、フォン・ブラウンらがアメリカに渡ってから開発した、あるいはソ連がV2の技術を基に開発した「中距離弾道ミサイル(IRBM)」の時代になってからです。
- 1950年代後半以降: 例えばアメリカの「レッドストーン」やソ連の「R-5(SS-3)」といったミサイルがその距離をカバーするようになります。
先ほどの「クンメルスドルフからマジェンタまで(約 825 km)」という距離は、当時のV2ロケットの射程を2倍以上も上回る遠い場所だったということになります。
もし、戦後のロケット開発(アメリカやソ連での進化)についてさらに興味があれば、そちらも詳しく解説できますが、いかがでしょうか?
Me: 1933年ごろのイタリアとドイツの政治的関係はどのような状況でしたか? イタリアのムッソリーニ政権はドイツと同盟関係、もしくはそれに近い関係にありましたか?
1933年ごろ、イタリアのムッソリーニ政権とドイツのヒトラー政権の関係は、後の「鋼鉄の同盟(1939年)」からは想像もつかないほど、むしろ緊張感があり、警戒し合う関係にありました。
結論から言うと、この時期のイタリアはドイツと同盟関係にはなく、むしろ「ドイツの暴走を抑える側(英仏に近い立場)」に立っていました。
当時の状況を整理すると、以下のようになります。
1. 1933年時点の関係:師匠と「生意気な弟子」
- ムッソリーニの優越感: 1922年に政権を握っていたムッソリーニは、自らをファシズムの先駆者(師匠)と考えていました。1933年に首相になったばかりのヒトラーを、まだ「海のものとも山のものともつかない後輩」のように見ており、ドイツの過激な人種理論などには冷ややかな視線を送っていました。
- ヒトラーの崇拝: 逆にヒトラーは、若い頃からムッソリーニを尊敬しており、政権獲得直後には敬意を表するメッセージを送っています。
2. 最大の対立点:オーストリア問題
1933年から1934年にかけて、両国の最大の火種はオーストリアの独立でした。
- ドイツ: ドイツ民族の統一を掲げ、オーストリアの併合(アンシュルス)を狙っていました。
- イタリア: オーストリアをドイツとの間の「緩衝地帯」と考えていたため、併合に猛反対していました。
- 一触即発の事態(1934年): ドイツの影響を受けたナチスがオーストリア首相を暗殺した際、ムッソリーニは国境に軍隊を集結させ、ドイツを強く牽制しました。この時、イタリアはドイツと戦争になる直前でした。
3. 英仏との連携(ストレーザ戦線)
1935年の初めごろまで、ムッソリーニはドイツの再軍備を止めるために、イギリス・フランスと組んで「ストレーザ戦線」という対独包囲網を形成していました。この時点では、イタリアは民主主義国家側に近い立場をとっていたのです。
関係が逆転したきっかけ
両国が急接近し、「同盟」への道を歩み始めるのは、1935年後半のエチオピア侵攻がきっかけです。
- イタリアがエチオピアを侵略し、国際連盟から経済制裁を受ける。
- 英仏がイタリアと距離を置く。
- 孤立したムッソリーニに対し、ヒトラーが手を差し伸べる(制裁に参加せず支援)。
- これにより、1936年に「ベルリン・ローマ枢軸」という言葉が生まれ、関係が同盟へとシフトしていきました。
まとめ表:1933年当時の立ち位置
| 項目 | イタリア (ムッソリーニ) | ドイツ (ヒトラー) |
|---|---|---|
| 立場 | 国際連盟の主要国・戦勝国 | 国際的に孤立し始めた新興政権 |
| オーストリア | 独立を守りたい(緩衝地帯) | 併合したい(民族統一) |
| 主なパートナー | イギリス・フランス | (なし) |
したがって、1934年にクンメルスドルフでA2ロケットが開発されていた当時、ドイツはまだ技術的にも政治的にも孤立しており、イタリアとはむしろ火花を散らしているような状況でした。
こうした複雑な国際情勢を踏まえて、他に気になる歴史的背景などはありますか?
(2026-01-12)