ET が 未来の悲惨な地球環境を警告するのはなぜか? この謎を解く
前置き
数多くの contactee/abductee が UFO の中で、
- ET から未来の悲惨な地球環境の生々しい映像を見せられ、人類の環境破壊の行く末を警告された
と証言している。これに UFO 研究者は誰も疑問を持たず、追求していないようだ。そこで、この謎を以下で解く。
まずは、Garry Nolan の発言を取り上げ、その誤解を指摘する。その上で謎を解く。
Garry Nolan : 1994, ジンバブエ, Ariel chool UFO 事件
コメント
Garry Nolan は
メッセージの特異性 子供たちのうち何人かは、テレパシーのような形で「あなたたちは地球を大切にしていない」というメッセージを受け取ったと証言しました。ノーラン教授が注目するのは、この出来事が、現代のように環境問題が広く議論されるずっと以前に起きたという点です。
と主張しているが、「環境問題が広く議論されるずっと以前に起きた」という判断は正しくない。
Ariel School UFO 事件は 1994年だが、この時点では既にマス・メディアが環境問題を大々的にアピールしていた(*1, *2)。ジンバブエの私立小学校に通えるだけの裕福な家庭の(=西側の情報に日常的にアクセスできる)小学生でも十分に感化されるレベルで環境意識を植え付けられてきたと想定できる。
数多くの contactee/abductee が UFO の中で、
- ET から未来の悲惨な地球環境の生々しい映像を見せられ、人類の環境破壊の行く末を警告された
証言するが、何のことはない、マスメディアからの植え付けられてきた脅迫的メッセージを ET に投影して、オウム返ししただけのこと。
*1 : 根拠 1
Me:
国連などによって、国際的に環境問題(特に地球全体の環境問題)が広く議論されるようになったのはいつ頃から? 1970年ごろ? 1990年? 2000年代? 大雑把な枠組みで。
国際的に環境問題、特に地球全体の環境問題が広く議論されるようになったのは、大雑把な枠組みで言えば1970年ごろからです。
国際的な議論の始まり
環境問題に関する最初の世界規模の国際会議は、1972年にスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議(ストックホルム会議)です。
- この会議で「かけがえのない地球(Only One Earth)」がスローガンとなり、環境問題が人類全体にとっての脅威として認識され、国際的に取り組むべき問題として議論されました。
- この会議の成果として「人間環境宣言」が採択され、また、環境問題を専門に扱う国連機関であるUNEP(国連環境計画)の設立が決定されました。
議論の本格化
1970年代に国際的な議論の土台が作られた後、1990年代に入ると、地球全体の環境問題(特に地球温暖化)への取り組みが本格化しました。
- 1992年にブラジルのリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミ ット)は、史上最大規模の国際会議となり、地球環境問題の重要性が世界中に認知されました。
- この会議では、「リオ宣言」や、持続可能な開発のための行動計画である「アジェンダ21」、「気候変動枠組条約」などが採択され、国際的な取り組みが具体的に進む大きな転機となりました。
したがって、国際的に広く議論されるようになったきっかけは1970年ごろ、そしてそれが本格的な国際行動へと発展したのが1990年代と言えます。
*2 : 根拠 2
Me: 関連して、モントリオール議定書はいつですか?
モントリオール議定書は、
- 採択(署名)日: 1987年9月16日
- 発効日: 1989年1月1日
です。
オゾン層を破壊する物質(フロン類など)の生産と消費を規制し、オゾン層の保護を目指す国際的な枠組みとして非常に重要な役割を果たしました。
Me: ということは、科学者が危険を最初に発見し、アピールしたのはそれ以前、1970年代ごろ?
はい、おっしゃる通り、科学者がフロンガスによるオゾン層破壊の危険性を最初に発見し、アピールしたのは1970年代です。
国際的な対策につながった主要な発見とアピールは以下の通りです。
危険性の発見とアピール (1970年代)
| 年 | 出来事 | 詳細 |
|---|---|---|
| 1974年 | フロンによるオゾン層破壊メカニズムの指摘 | アメリカのフランク・シャーウッド・ローランド博士とマリオ・モリーナ博士(1995年にノーベル化学賞を受賞)が、フロンガスが成層圏で分解され、発生する塩素原子がオゾン層を破壊するという論文を科学雑誌『ネイチャー』で発表しました。これが、オゾン層破壊問題が世界的に認知されるきっかけとなりました。 |
「オゾンホール」の実際の確認 (1980年代)
1970年代の指摘のあと、実際に現象が観測されたことで、問題の深刻さが一気に増しました。
- 1982年: 日本の忠鉢繁(ちゅうばちしげる)研究官(当時、南極観測隊員)が、南極の昭和基地での観測結果から、南極上空のオゾン量が著しく減少していることを突き止めました。
- 1985年: イギリスの科学者らによって、この現象が「オゾンホール」として論文で発表され、世界中に衝撃を与えました。
この1980年代半ばに「オゾンホール」という具体的な現象が確認されたことで、国際的な危 機感が高まり、モントリオール議定書(1987年採択)の採択へと迅速につながっていきました。
(2025-10-26)