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Krishnamurti : 人類の共通意識だけが実在、個々人の意識は幻想

· 32 min read
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(全体俯瞰 : AI 生成) click で拡大

前置き+コメント

Krishnamurti の主張を取り上げる。まず、AI(NotebookLM) で整理し、次にその整理された内容を検討する。

なお、この情報源となった動画は既に過去記事、

Jiddu Krishnamurti(クリシュナムルティ)は「自分は悟っている」と信じ、「悟った人物」を演じようとしていたようだ (2023-06-05)

で取り上げた。したがってここでは過去記事と別の面を扱うと、Krishnamurti は

  • 観念だけの虚構の抽象概念(人類の共通意識)を実在とし、
  • 生々しい実感(個々人の意識)を幻想とする

ことで、本末転倒の逆立ち芸をしている。こんな逆立ち芸は腕が疲れるだけで長時間の持続は無理。だから「人類の共通意識」を主張をした宗教者、思想家は他にいない(*1)。

人類史上、Krishnamurti ただ一人しか、自覚できない「人類の共通意識」なんて自己矛盾そのもの。

実際、Krishnamurti の語る「人類の共通意識」の内実は空っぽで、あるのは「愛と慈悲」というフレーズだけ。人類の歴史はそのフレーズとは真逆。現実が真逆だからこそ、理想としてそのフレーズが生み出された。

さらに、Krishnamurti は「人類の共通意識だけが実在、個々人の意識は幻想」だと悟れば、死の恐怖は消えると主張する。だが、当然ながら(生物の根源的な生存本能の裏返しとしての)「死の恐怖」は、薄っぺらな観念(虚構の抽象概念)で消え去ることはない。

生存本能はおろか、もっと軽い 食欲/性欲/睡眠欲 のレベルですら、生物としての人間が消し去ることは(Krishnamurti を含め)、どんな著名な宗教者も、哲学者も思想家も誰一人としてなし得ていない。

なお、あまりにも当人が受けている「生の苦」が甚大なゆえに、「死の恐怖」より「生の苦」が勝り、その「生の苦」から逃れるために自殺を選ぶことはありうる。だが、それは「死の恐怖」を感じなくなったのではなく、「生の苦」の恐怖が上回っただけの話。

要するに、Krishnamurti は観念に溺れやすい頭でっかち。だから現実より観念が先行しがちなインテリに注目された。

(*1)

Carl Gustav Jung の元型概念は若干、意味合いが異なるが「人類の共通意識」に類似した主張とみなしうるかも知れない。

その「人類の共通意識」の内実について言えば、Jung は品揃えが豊富だが、その中身は Krishnamurti のそれと共通しない。「人類の共通意識」を主張するたった二人の同士である Krishnamurti と Jung の間ですら、その中身が共通しないようでは、既に「共通」意識などと呼べはしない。

目次

  1. 前置き+コメント
    1. (*1)
  2. 要旨
  3. 死後の生存はあるか? J・クリシュナムルティによる意識と自己の本質に関する洞察
    1. 要約
    2. 1. 個人の幻想
    3. 2. 死への恐怖とその克服
    4. 3. 自己という書物を読む
    5. 4. 愛と慈悲の超越性
  4. 『本当の自分』とは何か? J・クリシュナムルティの教えへの招待
    1. 導入:私たちは本当に「個人」なのでしょうか?
    2. 1. 私たちが「自分」だと思っているものの正体
    3. 2. あなたの脳は「あなただけのもの」ではない
    4. 3. 最大の誤解:「私の意識」と「人類の意識」
    5. 4. この考え方がもたらすもの:人生はどう変わるのか?
    6. 結び:あなた自身という「一冊の本」を読む
  5. 情報源

要旨

AI

死後の生存、個と人類の意識

この文書は、死後の存続と、人間が持つ執着や後悔の「残滓」がどうなるかという‌‌実存的な問い‌‌を提示しています。

J.クリシュナムルティは、‌‌個人の意識は幻想である‌‌と主張し、それは何百万年もの時間をかけて形成された‌‌全人類に共通の意識‌‌であると説明します。

彼は、この共通の事実を受け入れたとき、‌‌死への恐怖は消え去る‌‌と述べ、個であるという考えは単なる‌‌条件付けられた思考‌‌の産物に過ぎないとします。

さらに、‌‌愛と慈悲‌‌だけが死を超越するものであり、真の光明をもたらす要素であると強調しています。最終的に、この真実を理解するためには、外部の権威に頼るのではなく、‌‌自己の中にある「人類の歴史という書物」を‌‌、動機や偽善のない‌‌鋭敏な注意深さ‌‌をもって読み解く必要があると結論付けています。

死後の生存はあるか? J・クリシュナムルティによる意識と自己の本質に関する洞察

AI

要約

この文書は、J・クリシュナムルティによる「死後、生存はあるか」という問いに対する深遠な分析を要約したものである。クリシュナムルティの核心的な主張は、この問い自体が「個人」という分離した自己が存在するという誤った前提に基づいているという点にある。彼の思想によれば、人間の意識は個人的なものではなく、人類全体に共通する普遍的なものである。

最重要の結論として、私たちが「私」と認識しているものは、名前、記憶、信念、欲望といった後天的な条件付けの集合体に過ぎず、それは全人類に共通する特性である。したがって、死への恐怖は、この分離した「私」という幻想に執着することから生じる。この幻想、すなわち意識が個人的なものであるという思い込みが解体されるとき、死への恐怖は意味を失う。真の理解は、外部の知識ではなく、動機や矛盾のない、鋭敏で覚醒した心によって「自己という書物」を読み解くことからのみ得られる。最終的に、愛と慈悲は死を超越する唯一の要素であり、その真実を悟ることこそが真の叡智であると結論づけられる。

詳細分析

1. 個人の幻想

クリシュナムルティは、死後の生存についての議論を始める前に、その問いの根底にある「個人」という概念そのものに疑問を投げかける。彼によれば、「個人」という観念は、深く根付いた幻想に過ぎない。

意識は個人的なものではなく、人類共通のものである

  • 脳の普遍性: 人間の脳は何百万年もの時間をかけて進化してきたものであり、それは特定個人のものではなく、人類共通の脳である。文化、気候、環境による条件付けが表面的な違いを生むかもしれないが、その根本的な構造と機能は普遍的である。
  • 意識の共有性: 個人の意識は、人類全体の意識の一部である。クリシュナムルティはこれを、腕に針を刺されたときに痛みを感じるのと同じくらい動かしがたい「事実」であると強調する。
  • 思考による誤認: 「これは私の脳だ」「私は個人だ」という思考が生まれるが、それ自体が条件付けの産物である。

「私」とは何か?

  • 個性の定義: 個人であるとは、名前、容姿、国籍、あるいは特定のコミュニティへの所属によって定義されるものではない。真の個人とは「断片的でない者」を指すが、人間は皆、断片的であるため、厳密な意味での個人は存在しない。
  • 「私」の構成要素: 一般的に「私」と考えられているものは、以下の要素の集合体である。
    • 名前と容姿
    • 教育、知識、経歴
    • 家族や宗教の伝統
    • 信念、迷信、貪欲、野心、理想
  • 共通の特性: これらの要素(貪欲、嫉妬、恐怖、安全への渇望、迷信など)は、個人に特有のものではなく、人類全体に共通する意識の内容である。

2. 死への恐怖とその克服

「私」が幻想であるという理解は、死への恐怖という問題に直接的な影響を及ぼす。

恐怖の根源

  • 中心的な問い: 人々が本当に知りたいのは、「私が死んだ後、私に何が起こるのか?」ということである。
  • 個への執着: 死への恐怖は、分離した実体としての「私」が存在するという信念、すなわち脳にプログラムされた「私は個人である」という観念に執着している場合にのみ存在する。

恐怖からの解放

  • 普遍的意識の実現: もし自分の意識が人類共通の意識の現れに過ぎないという事実を真に体得すれば、「私」という恐怖の主体は意味をなさなくなる。
  • 肉体の死と意識: 肉体が火葬されたり埋葬されたりして消滅しても、それが一部であった「人類共通の意識」は存続する。
  • 偽善の回避: この真実を頭では「その通りだ」と認めながら、行動においては依然として個人として振る舞い続けることは、醜い偽善であると指摘される。

3. 自己という書物を読む

クリシュナムルティは、真の理解は外部からの教えではなく、内なる探求によってのみ得られると説く。

内なる探求の重要性

  • 外部への依存: 人間は他人の思想や書物に頼って生きているが、最も重要な「自己という書物」を決して読もうとしない。
  • 自己=人類の歴史: 私たち自身が人類の歴史そのものであり、その書物は私たち自身である。

読書の方法

  • 指導者の不在: この書物を読むことは、いかなるグル、救世主、師、心理学者、教授にも教えることはできない。完全に自分自身で読まなければならない。
  • 二つの読み方:
    1. 漸進的な読書: 一生をかけてページを一枚一枚ゆっくりと読み進めるが、死ぬまでに読み終えることはない。
    2. 一瞥による読了: 脳が非常に鋭敏で、覚醒し、いかなる動機や方向性も持たず、矛盾や偽善がない状態にあるとき、その書物全体を一瞥で読み終えることができる。
  • 書物の先にあるもの: その書物を読み終えたとき、人はその書物の先にあるものを自ら見出すことになる。

4. 愛と慈悲の超越性

議論の最後に、クリシュナムルティは知的な理解を超えた、決定的に重要な要素を提示する。

  • 死を超越する愛: 「愛は死を知らない。慈悲は死を知らない」。死を恐れるのは、愛や慈悲を持たない者だけである。
  • 獲得不可能な境地: 愛や慈悲は市場で商品のように買うことはできない。
  • 真の悟り: 「愛だけが死を持たない」という事実を体得すること、それこそが、あらゆる叡智、言葉、知的な罠を超えた「真の悟り」である。

『本当の自分』とは何か? J・クリシュナムルティの教えへの招待

AI

導入:私たちは本当に「個人」なのでしょうか?

「自分とは一体誰なのだろう?」——私たちは人生の中で、一度ならずこの問いに直面します。自分の性格、夢、そして悩みに向き合うとき、その中心には常に「私」という存在がいます。

しかし、20世紀の思想家J・クリシュナムルティは、この常識を根底から覆す、驚くべき視点を提示しました。それは‌‌「あなたの意識は、あなた個人のものではなく、全人類のものです」‌‌という考え方です。

にわかには信じがたいこの言葉は、一体何を意味するのでしょうか?これは単なる哲学的な遊びではありません。私たちが抱える苦しみの根源に触れる、人生で最も重要な問いかけなのです。この記事の目的は、この深遠な考え方を、哲学に初めて触れるあなたにもわかるように、順を追って解き明かすことです。クリシュナムルティの言葉を手がかりに、「本当の自分」を探る旅を始めましょう。

1. 私たちが「自分」だと思っているものの正体

私たちが「自分」というとき、それは何を指しているでしょうか?クリシュナムルティによれば、それは以下のような要素の集まりです。

  • 名前や容姿
  • 学歴や職業
  • 家族や国の伝統
  • 信条や理想
  • 野心や貪欲さ、恐怖心

しかし、彼はこれらの要素が「真の個人」を意味するものではないと指摘します。なぜなら、それらはすべて外部からの「条件付け」の結果に過ぎないからです。

私たちが「自分」と考える要素クリシュナムルティの視点
名前、容姿、家族、国籍これらは偶然生まれた場所の気候や文化、言語によって与えられたラベルであり、選択したものではありません。
学歴、職業、知識教育システムや社会の価値観によって形成されたものであり、断片的な情報の集積です。
信条、思想、宗教共産主義者、資本主義者、特定の神を信じる者——これらは全て、育った環境から受け継いだプログラムであり、他の文化圏で育てば全く異なるものになっていたでしょう。
野心、嫉妬、恐怖、安心を求める気持ちこれらは社会的な競争や「もっと良くならなければ」という教育によってプログラムされた反応です。私たちの思考が、比較と分離の感覚から生み出しています。

これらの要素は、パズルのピースのように断片的な情報の寄せ集めです。私たちはそれを「自分」だと信じていますが、クリシュナムルティは核心を突きます。

「私」という感覚は、思考が生み出したものに過ぎないのです。

2. あなたの脳は「あなただけのもの」ではない

クリシュナムルティの探求は、さらに深層へと向かいます。私たちが「自分」の最後の砦だと考える「脳」そのものさえ、個人的な所有物ではないのです。私たちの脳は、人類共通の遺産です。その理由は3つの要点から説明できます。

  1. 数百万年の進化の産物 私たちの脳は、今日突然現れたものではありません。それは数百万年という、気の遠くなるような時間をかけて進化してきた、人類共通の器官です。その基本的な構造や機能は、あなたも私も、そして地球上のすべての人で同じです。
  2. 条件付けされたコンピューター 脳はコンピューターのように、育った環境から特定の信念を繰り返しインプットされ、「私は個人である」「私は〇〇人である」と自動的に反応するようにプログラムされています。これは後天的にインストールされた思考のプログラムに過ぎません。
  3. 全人類共通の感覚の中心 脳は、経験、知識、記憶を蓄積する場所です。そして、それらを元に「思考」が生まれます。この「経験→記憶→思考」というメカニズムは、すべての人類に共通する仕組みです。脳は、あらゆる感覚的反応の中心であり、その働きは普遍的なのです。

つまり、私たちの脳という「ハードウェア」が人類共通であるならば、そこで実行される思考や感情という「ソフトウェア」もまた、個人的なものではなく、人類全体で共有される巨大なプログラムの一部ではないでしょうか? この点こそが、クリシュナムルティ思想の核心です。

3. 最大の誤解:「私の意識」と「人類の意識」

私たちは当たり前のように「私の意識」「私の悩み」「私の考え」と言います。しかし、クリシュナムルティはこの「私」という区切りこそが、人類最大の誤解であると断言します。

あなたの意識は、人類の意識そのものです。

少し考えてみてください。あなたが今感じている悩みが、完全にあなた独自のものであると言い切れるでしょうか?

  • 嫉妬
  • 恐怖
  • 孤独
  • 安心を求める気持ち
  • 貪欲さ

これらの感情は、あなたが「私の悩み」として抱えているかもしれませんが、実は人種や文化、時代を超えて、‌‌全人類が共通して体験してきた「人類の意識の内容」‌‌そのものです。あなたは、その苦しみを自分だけのものだと思い込んでいませんか? しかし、その構造は地球の裏側にいる見知らぬ誰かと、本質的に何ら変わりはないのです。この事実から目を背けることは、果たして誠実な態度と言えるでしょうか?

この真実を心のどこかで理解しながら、それでもなお「自分は特別だ」「自分の悩みこそが重要だ」と個人として振る舞い続けること。クリシュナムルティは、これを‌‌「醜く、偽善的だ」‌‌と極めて厳しく指摘しました。私たちは皆、同じ意識の海につながっているにもかかわらず、自分だけの小さな島に閉じこもっているかのように行動しているのです。

4. この考え方がもたらすもの:人生はどう変わるのか?

意識が人類共通であるという真実を理解することは、机上の空論ではありません。それは私たちの生き方を根底から変える力を持っています。この視点は、人生の根源的なテーマである「死」と「愛」の意味を、全く新しい光で照らし出します。

4.1. 死への恐怖からの解放

なぜ私たちは死を恐れるのでしょうか?クリシュナムルティの洞察によれば、それは‌‌「私という個人」が、その経験や記憶もろとも、完全に消えてしまうと考えるから‌‌です。蓄積してきたすべてが「無」に帰すことへの恐怖が、私たちを縛りつけます。

しかし、もし「私」という意識がそもそも個人的なものではなく、人類という大きな流れの一部であるならば、死によって失われるものは一体何なのでしょうか?

肉体は滅びますが、「意識」そのものは、人類という大きな川の流れのように続いていきます。この理解に至ったとき、「個」の消滅への恐怖は、その根拠を失い、意味をなさなくなるのです。

4.2. 愛と慈悲の本当の意味

クリシュナムルティは、死と愛の関係についてこう語ります。

「愛と慈悲は死を知らない」

では、なぜ死を恐れる者がいるのでしょうか? クリシュナムルティは、その理由を「愛や慈悲を持たないからだ」と断言します。愛や慈悲を持たない者だけが、自分を世界から切り離された孤立した「個人」と捉え、その個の終わりに恐怖するのです。愛や慈悲とは、他者との分離感が消え、自分が人類という大きな全体の一部であると実感している状態です。そのとき、個人の終わりである「死」は、もはや恐怖の対象ではなくなります。

この真実の理解は、市場で物を買うように手に入れられるものではありません。しかし、それこそが言葉や知識を超えた‌‌「真の悟り」‌‌なのだと、クリシュナムルティは示唆しています。

結び:あなた自身という「一冊の本」を読む

クリシュナムルティは、私たち一人ひとりを‌‌「人類の歴史がすべて書かれた一冊の本」‌‌だと表現しました。あなたの内には、喜びも、悲しみも、争いも、愛も、人類が経験してきたすべての物語が刻まれています。

そして、この「本」を読むためには、誰かに頼ることはできません。

グル(師)も、救済者も、心理学者も、どんな権威も、あなたの代わりにその本を読んでくれることはないのです。あなた自身で、あなたという本を読むしかありません。

その探求は、ページを一枚一枚ゆっくりとめくるように、何年もかけても読み終えることができずに死んでいくかもしれません。あるいは、鋭い気づきによって、一瞬で本全体を理解することもあるでしょう。

大切なのは、他人の言葉を鵜呑みにするのではなく、あなた自身の内なる探求を始めることです。そのとき、あなたは「自分」という小さな枠を超え、より広大で自由な世界への扉を開くことになるでしょう。

情報源

講演動画(16:12)

Is there any survival after death? | J. Krishnamurti

https://www.youtube.com/watch?v=OwCvbSiRkM8

(2025-12-04)