Krishnamurti : 人類の共通意識だけが実在、個々人の意識は幻想
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前置き+コメント
Krishnamurti の主張を取り上げる。まず、AI(NotebookLM) で整理し、次にその整理された内容を検討する。
なお、この情報源となった動画は既に過去記事、
Jiddu Krishnamurti(クリシュナムルティ)は「自分は悟っている」と信じ、「悟った人物」を演じようとしていたようだ (2023-06-05)
で取り上げた。したがってここでは過去記事と別の面を扱うと、Krishnamurti は
- 観念だけの虚構の抽象概念(人類の共通意識)を実在とし、
- 生々しい実感(個々人の意識)を幻想とする
ことで、本末転倒の逆立ち芸をしている。こんな逆立ち芸は腕が疲れるだけで長時間の持続は無理。だから「人類の共通意識」を主張をした宗教者、思想家は他にいない(*1)。
人類史上、Krishnamurti ただ一人しか、自覚できない「人類の共通意識」なんて自己矛盾そのもの。
実際、Krishnamurti の語る「人類の共通意識」の内実は空っぽで、あるのは「愛と慈悲」というフレーズだけ。人類の歴史はそのフレーズとは真逆。現実が真逆だからこそ、理想としてそのフレーズが生み出された。
さらに、Krishnamurti は「人類の共 通意識だけが実在、個々人の意識は幻想」だと悟れば、死の恐怖は消えると主張する。だが、当然ながら(生物の根源的な生存本能の裏返しとしての)「死の恐怖」は、薄っぺらな観念(虚構の抽象概念)で消え去ることはない。
生存本能はおろか、もっと軽い 食欲/性欲/睡眠欲 のレベルですら、生物としての人間が消し去ることは(Krishnamurti を含め)、どんな著名な宗教者も、哲学者も思想家も誰一人としてなし得ていない。
なお、あまりにも当人が受けている「生の苦」が甚大なゆえに、「死の恐怖」より「生の苦」が勝り、その「生の苦」から逃れるために自殺を選ぶことはありうる。だが、それは「死の恐怖」を感じなくなったのではなく、「生の苦」の恐怖が上回っただけの話。
要するに、Krishnamurti は観念に溺れやすい頭でっかち。だから現実より観念が先行しがちなインテリに注目された。
(*1)
Carl Gustav Jung の元型概念は若干、意味合いが異なるが「人類の共通意識」に類似した主張とみなしうるかも知れない。
その「人類の共通意識」の内実について言えば、Jung は品揃えが豊富だが、その中身は Krishnamurti のそれと共通しない。「人類の共通意識」を主張するたった二人の同士である Krishnamurti と Jung の間ですら、その中身が共通しないようでは、既に「共通」意識などと呼べはしない。
目次
要旨
死後の生存、個と人類の意識
この文書は、死後の存続と、人間が持つ執着や後悔の「残滓」がどうなるかという実存的な問いを提示しています。
J.クリシュナムルティは、個人の意識は幻想であると主張し、それは何百万年もの時間をかけて形成された全人類に共通の意識であると説明します。
彼は、この共通の事実を受け入れたとき、死への恐怖は消え去ると述べ、個であるという考えは単なる条件付けられた思考の産物に過ぎないとします。
さらに、愛と慈悲だけが死を超越するものであり、真の光明をもたらす要素であると強調しています。最終的に、この真実を理解するためには、外部の権威に頼るのではなく、自己の中にある「人類の歴史という書物」を、動機や偽善のない鋭敏な注意深さをもって読み解く必要があると結論付けています。
死後の生存はあるか? J・クリシュナムルティによる意識と自己の本質に関する洞察
要約
この文書は、J・クリシュナムルティによる「死後、生存はあるか」という問いに対する深遠な分析を要約したものである。クリシュナムルティの核心的な主張は、この問い自体が「個人」という分離した自己が存在するという誤 った前提に基づいているという点にある。彼の思想によれば、人間の意識は個人的なものではなく、人類全体に共通する普遍的なものである。
最重要の結論として、私たちが「私」と認識しているものは、名前、記憶、信念、欲望といった後天的な条件付けの集合体に過ぎず、それは全人類に共通する特性である。したがって、死への恐怖は、この分離した「私」という幻想に執着することから生じる。この幻想、すなわち意識が個人的なものであるという思い込みが解体されるとき、死への恐怖は意味を失う。真の理解は、外部の知識ではなく、動機や矛盾のない、鋭敏で覚醒した心によって「自己という書物」を読み解くことからのみ得られる。最終的に、愛と慈悲は死を超越する唯一の要素であり、その真実を悟ることこそが真の叡智であると結論づけられる。
詳細分析
1. 個人の幻想
クリシュナムルティは、死後の生存についての議論を始める前に、その問いの根底にある「個人」という概念そのものに疑問を投げかける。彼によれば、「個人」という観念は、深く根付いた幻想に過ぎない。
意識は個人的なものではなく、人類共通のものである
- 脳の普遍性: 人間の脳は何百万年もの時間をかけて進化してきたものであり、それは特定個人のものではなく、人類共通の脳である。文化、気候、環境による条件付けが表面的な違いを生むかもしれないが、その根本的な構造と機能は普遍的である。
- 意識の共有性: 個人の意識は、人類全体の意識の一部である。クリシュナムルティはこれを、腕に針を刺されたときに痛みを感じるのと同じくらい動かしがたい「事実」であると強調する。
- 思考による誤認: 「これは私の脳だ」「私は個人だ」という思考が生まれるが、それ自体が条件付けの産物である。
「私」とは何か?
- 個性の定義: 個人であるとは、名前、容姿、国籍、あるいは特定のコミュニティへの所属によって定義されるものではない。真の個人とは「断片的でない者」を指すが、人間は皆、断片的であるため、厳密な意味での個人は存在しない。
- 「私」の構成要素: 一般的に「私」と考えられているものは、以下の要素の集合体である。
- 名前と容姿
- 教育、知識、経歴
- 家族や宗教の伝統
- 信念、迷信、貪欲、野心、理想
- 共通の特性: これらの要素(貪欲、嫉妬、恐怖、安全への渇望、迷信など)は、個人に特有のものではなく、人類全体に共通する意識の内容である。
2. 死への恐怖とその克服
「私」が幻想であるという理解は、死への恐怖という問題に直接的な影響を及ぼす。
恐怖の根源
- 中心的な問い: 人々が本当に知りたいのは、「私が死んだ後、私に何が起こるのか?」ということである。
- 個への執着: 死への恐怖は、分離した実体としての「私」が存在するという信念、すなわち脳にプログラムされた「私は個人である」という観念に執着している場合にのみ存在する。
恐怖からの解放
- 普遍的意識の実現: もし自分の意識が人類共通の意識の現れに過ぎないという事実を真に体得すれば、「私」という恐怖の主体は意味をなさなくなる。
- 肉体の死と意識: 肉体が火葬されたり埋葬されたりして消滅しても、それが一部であった「人類共通の意識」は存続する。
- 偽善の回避: この真実を頭では「その通りだ」と認めながら、行動においては依然として個人として振る舞い続けることは、醜い偽善であると指摘される。